小説の舞台は1930年代。ファシズムはポルトガルの一新聞記者をも見逃さなかった。
ファシズムは、さいしょは、姿を見せない。密かに忍び寄り、得体のしれない不気味さを漂わせるだけだ。
しかし、それは、ある日、姿を現す。知性のない、しかし、反論を許さない決めつけの暴言のジャブをいくつも放っておいて、さいごは、金属によって相手を鮮血に浸す。その暴虐をあきらかにする。
2020年の今日も、ファシズムの網は張り巡らされているし、しばしば急襲もあることを教えられる。
須賀敦子の翻訳がすばらしい。翻訳を読むときの苛立ちがまったくなく読めた。翻訳は第二の創作である、という言葉は須賀のためにある。