住職のエッセイ集。読みやすいですが、深い思索に基づいています。
わたしは、比較的リベラル、自由なキリスト教の牧師ですが、読んでいて、それは違う、と思うようなところはありませんでした。その通りです、とか、なるほど、そのように考えるのですね、これはすごい、の連続でした。
「くるっと背を向けてしまえば、光源は見えないけれども、背中に温もりを感じることができる」(p.13)。
キリスト教の神も阿弥陀仏も人の目には見えない。ならば、背中を向けてしまおう。窓から外を見るのではなく、窓から陽光を背中に受ける。それが、南無阿弥陀仏、つまり、阿弥陀仏にお任せする世界だ、と言うのです。
「かごで水を掬おうとするから漏れてしまうので、そのかごを水にザブンと丸ごと浸してしまえば、そのかごの中には水が漫々と湛えられるのではないか」(p.17)。
イエスは「福音の中で信ぜよ」(岩波版聖書)と言ったと伝えられています。福音=神の救いの知らせを自分が信じようとすると難しいが、神の救いという空間、世界がすでにここにあるのだから、その中に身を浸してしまおう、ということでしょうか。
「誕生は『生』と同時に『死』が誕生することだ」(p.52)。
わたしたちは、時が来て「生」をいただいたのですから、また時が来たら「死」もいただくのです。
「倒れた者にのみ感じられるものが『大地』だ。両足で立って遠くを見ている人間には『大地』が見えない。両足が崩れ去って、倒れた者のみに、『大地』が与えられる」(p.122)。
大地が人間の根源と結びつけられた表現はよくありますが、「倒れた者」に「大地が与えられる」という言葉は、秀逸だと思います。
「人間は『さあこれから』と考え、佛は『すでにして』と応える」(p.212)。
わたしたちは、なんとか努力してこれから救われよう、としますが、超越者は、あなたはすでに救われている、わたしはあなたをすでに救っている、と言うのです。
「『一般的』な『信』は、『自分が信じる』というコードで使われる。つまり、主語は『自分』なのだ。しかし、親鸞が直感したであろう『信』は、その『自分が』が空洞になっている。自分には『信ずる』という経験は成り立たないのだ・・・『信』が目的になってしまえば、〈いま〉信じていることにはならない」(p.81)。
やはり、見るのではなく背中で浴びるのであり、かごで掬うのではなくかごごと水に浸るのであり、さあこれからではなく、すでにしてなのです。
このような魅力的な書物ですが、市販されているのではなく、因速寺のホームページの「お問い合わせ」から申し込むと入手できます。代金と送料もホームページで見つけられます。
わたしは、かつて仏教関係、キリスト教関係の読書会で導いていただいた友人から、本書をいただきました。まことにありがとうございました。