霊性とは何か。世界、万物、生命、人間を創造し維持する力、あるいは、神を大霊とすると、人間には(あるいは、万物にも)大霊を感知したり、それにつながったりする小霊がある、と考えられる。小霊は、大霊が人間に宿った、あるいは、自身を人間にわかちあたえた姿と言えるかもしれない。絶対者の霊性は大霊であり、人間の霊性は小霊と言えるだろう。このように言っても本書から逸脱していないであろう。
本書では、東西というか、イスラエルに起源しヨーロッパで展開したキリスト教と、仏教を中心とした日本思想が、霊性という観点から、並行的に述べられている。
以前から語られている鎌倉仏教とプロテスタントの共通点も本書で再確認されている。すなわち、ルターと親鸞においては、ともに信仰、恩恵、罪認識が強調され、ルターは「キリストのみ」と言い、親鸞はひたすら阿弥陀仏の名を唱えよと言う。ルターは神の恩恵は「私のため」と言い、親鸞は「親鸞一人のために」と言う。
しかし、著者は両者の相違点も忘れない。「キリストが歴史的実在であることが相違点となっている。キリストが単なる職名に過ぎないのではなく、ナザレのイエスという歴史的な実在であることこそ東西の恩寵宗教に見られる最大の相違点である。仏教の説く「阿弥陀」も「法蔵菩薩」も教えであって、実在する人物ではない」(p.255)。
けれども、問題は、キリスト教徒のある人びとが、イエスが実在することをキリスト教が唯一の救い、真の宗教であるという主張に結び付けることにあるのではなかろうか。
イエスは実在して絶対者を示した、彼の霊性は強く、大霊と深く結ばれ、一体化していた、という考えは間違っていない。けれども、イエスを通してしか、人間は大霊と繋がり得ない、とは言えないのではなかろうか。
ただし、自分にとってイエスが救い主=キリストであり、イエスだけがそうだ、と信じるキリスト教徒がいても、まったく問題はない。その人にとって、イエスだけがキリストであり、唯一の神への道なのだ。まさに「わたしのために」だ。
しかし、それは、本人と神との関係にとどめておくべきであって、イエスとは違う道で神とつながっている人に「それは、正しい道ではない」などと言うべきではない。