610    「青年と中年と死者との対話から生まれてくるもの」 ・・・ 「心」(姜尚中、集英社文庫、2015年)

 わたしが講師を務める高校では毎年二年生の現代文で漱石の「こころ」を取り上げています。生徒たちは教科書とは別に「こころ」を文庫本で読んでいます。もう何年もそうしているのは、ひとつは、この作品が高校生に強く訴えるものを持っているからでしょうか。

 

 姜尚中さんの「心」は漱石へのオマージュと言ってもよいかもしれません。若い大学生と中年大学教員が手紙ならぬメールをいくつも交わします。ひとりの女性をめぐるふたりの青年の想いも出てきます。

 

 教員は、他の大学の学生であるにもかかわらず、青年の長く書き連ねられたメールに丁寧なやはり長めの返事をします。おそらく、一時間では終わらない働きでしょう。姜尚中さんも学生たちにこのように誠実に応答していたのかもしれないなと思いました。

 

 青年にも教員にも死者がいます。死者との対話があります。死者こそが「心」の主人公かもしれません。教員は言います。「何者によっても否定できない故人の過去こそが死者に永遠の時間を与えているのです」(p.135)。青年は答えます。「「死」って結局、「生」を輝かせてくれるものじゃないでしょうか」(p.157)。

 教員は言葉をつなぎます。「わたしたちは「ライフ」だけでなく「デス」もすくい上げるあげる必要があるのではないでしょうか・・・君は人が「生きた」人生の証をはっきりさせるための“ピリオド”を打つ仕事をしたのです。君は人の魂の“看取り”をする仕事に取り組んだのですよ。君がそれをやったからこそ、君が見つけた遺骸は単なる物体でなくなったのです。単なる死者でなくなったのです。生き生きとした、輝くような過去を持った永遠の人となったのです・・・死の中に生が含まれている。生の中に死がくるみこまれている。それは矛盾ではありません。それが人間というものの尊厳を形成しているのです」(p.166)。

 

 こんなメールはちょろちょろっと書けるものではありません。心を割き、時間をかける必要があります。こうして、メールは手紙になりうることが実証されます。

 

 手紙は幾度か出され、青年はそのつど答えます。「これはきっと亡くなった方から力をもらっているのです。生と死がつながっているとはそういうことだと思います。それがわかったときから、自分のやっていることは、亡くなった方から思いをもらって、生きる力に生かすことなんだと思うようになりました。そして、それは僕だけのためではなく、亡くなった方のためであるとわかりました。僕が『生きる力』をもらえば、その方の『死』も輝く。その方の死が輝くような『永遠』になるのだって」(p.231)。

 

 さいごに、教員は自身の息子の言葉を青年に教えます。それは、青年が死者から学んだことでもありました。

 

「生きて生きて、生き抜いた果てに、息子と再会することができれば――。父(アボジ)は立派にお前の言葉を守ったよと、報告したいのです」(p.276)。

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