誤読ノート495 「ダメ牧師を慰める書」・・・「種まく人」(若松英輔、2018年、亜紀書房)

 若松さんのエッセイ集。

 

 若松さんは井上洋治神父を師と呼ぶ。「神父の生涯は、人々に、言葉といういのちの炎を届けることにあった」(p.13)。

 

 若松さんもまた、著作を通して、コトバを、いやコトバそのものではなく、コトバの炎を、わたしたちに垣間見せてくれる。

 

 「詩とは、言葉の器には収まらないコトバが世に顕現することだといえるのかもしれない」「顕現といっても、そのすべてが顕われるのではない。そのありようは、強烈な光源を伴う何ものかが接近してくるのに似ている。人がふれ得るのは、光の淵源ではなく、放たれた光線に過ぎない」(p.41)。

 

 ぼくたち牧師の仕事も、人が光源からの光線に触れえるように整えることではなかろうか。

 

 牧師たちは「イエスが言う時とは、クロノスではなく、カイロスのことです」と言う。若松さんは言う、「時間で計られる昨日は、過ぎ去った日のことだが、『時』の世界では、あらゆる過去の事象が、今の出来事としてよみがえってくる」(p.60)、「愛する人、愛する場所、愛するものを喪う悲しみは、いつも『時』の世界で生起しているのだが、傍観する者の目には『時間』の世界の事象のように見えてしまう。時間的な記憶は、さまざまな要因で薄れることがあるかもしれないが、『時』の記憶はけっして消えることがない。私たちの意識がそれを忘れても、魂はそれを忘れない」(p.61)。

 

 「本を通じて、あまり本を読まない人に言葉を届ける。ここには容易に越えがたい壁があるのは承知している」(p.171)。これも、ぼくたち牧師の状況と同じだ。ぼくたち牧師はコトバを伝えることがあまりうまくない。しかし、若松さんは続ける。「だが、道がないわけではない」(同)。

 

 「わたしが/書く詩なんて/あなたは きっと/読んでくれない//だから/たくさん書いて/いろんなひとに/読んでもらって//言葉を/青い風に/乗せなくては/いけない//こんな詩もある と/誰かの口を通じて/あなたのもとに/届くように//そうすれば/いつの日か/あなただけが/わかる//見えない文字で/記された/秘密の暗号を 必ず/読み解いてくれる//そう/こころから信じて/ペンを/握りしめている」(p.171)。

 

 牧師さんたち、種を蒔こう。あしたか、百年後か、わからないけれども、きっと芽が出るから。たったひとりの誰かが、その芽を見つけるから。芽は出なくても、根は永遠の世界に降りていくから。

 

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