昨年、「深い河」「女の一生 一部」「女の一生 二部」と読み、感銘を受け、遠藤周作を読み返さなければならないと思い、本作を読んでみました。
しかし、去年読んだ三冊や、ずっと以前に読んだ「沈黙」や「侍」と、本作とでは、読後感がだいぶ違いました。一言で言えば、巻末に救いを感じなかった、ということです。
本作のテーマの一つは、棄教者はどうなるのか、ということです。
「わしのような背教者は除外されている」(p.184)。
この問いへの応答のひとつが「沈黙」でありましょう。本作が1955年、「沈黙」は1966年です。
けれども、本作にも、じつは、救いの兆候は見られるのです。
「だが私は神を拒みながら、その存在を否むことはできない。彼は私の指の先までしみこんでいるのだ」(p.187)。
「祈っているよ。君。たとえ、君が神を問題にしなくても、神は君をいつも問題にされているのだから……」(p.40)。
もう一つのテーマは、「日本とキリスト教」です。
「結局、神父さん、人間の業とか罪とかはあなたたちの教会の告解室ですまされるように簡単にきめたり、分類したりできるものではないのでありませんか」
「黄色人のぼくには、あなたたちのような罪の意識や虚無などのような深刻なもの、大げさなものは全くないのです。あるのは、疲れだけ、ふかい疲れだけ。ぼくの黄ばんだ肌の色のように濁り、湿り、おもく沈んだ疲労だけなのです」(p.110)。
「あんたは教会を捨てはったんでしょう。ならどうしていつまでもその事ばかり気にかかりますの。なんまいだといえばそれで許してくれる仏さまの方がどれほどいいか、わからへん」(p.164)。
これらの言葉は、日本にはキリスト教を受け入れる土壌がない、というよりも、キリスト教には日本に土着する普遍性がない、と読むべきではないでしょうか。
遠藤周作は、キリスト教を日本に合うようにしようとした、と言われることもありますが、むしろ、キリスト教という特殊、個別宗教の中から、その枠にとどまらない普遍の霊性を引き出そうとしたのが、「深い河」などではないでしょうか。
棄教者は救われます。しかし、そのためには、キリスト教自身が自己の姿に固執せず、仏教やインドの霊性などに開かれて行かなければならない、それらの力を借りて、キリスト教自身が抑えつけてきたキリスト教の深いところの霊性を掘り当てていかなければならない、いわばキリスト教そのものがキリスト教を棄教しなければならない、それを書くことが遠藤の生涯の仕事だったのではないでしょうか。
本作はその出発地の一点でありましょう。