遠藤のもうひとつのキリシタン小説「沈黙」に登場するキチジローは、キリストを棄てる。だが、キリストはキチジローを赦す。
しかし、遠藤は弱い者、人間の弱さだけを描いているのではない。「沈黙」にも、この「女の一生」にも、けっして信仰を棄てない者たちがいる。
投獄また投獄。拷問また拷問。仲間の死また死
それでも、ぜったいに転ばない。なぜか。
「ジェズスさまはもっと辛か目に会われたとばい。そいば思うて辛抱すうや」
「あいは女が一人の男に惚れぬいた時の強さによう似とる」
信仰の本質は教義ではなかった。いや、惚れぬいた時の強さ、共苦こそが、まことの教義であった。
ぼくたちの人生も、苦しみまた苦しみ、信じられないことまた信じられないこと、ひどいことまたひどいこと。
けれども、神もまたその苦しみ、信じられないこと、ひどいことをすべて被っておられる。神もまた倒れている、踏まれている、叫んでいる、いや、声さえ出ない。
このことだけは、けっして否定できない。神は何もしてくれないように見える。しかし、神はともに苦しんでくれる。この言葉にぼくは惚れている。
「彼女は血を吐き、うつ伏した。内陣は静寂で、雪は外に音もなく舞っていた。咳の音が終ると彼女の体は動かなくなった」
「この時聖母の大きな眼にキクと同じように白い泪がいっぱいにあふれた」
ぼくは遠藤のこれを読んで、世界の聖母像が泪を流すことを、はじめて、すなおに信じることができた。