全体主義は何百万人も殺した。それはその人たちがこれから展開するはずだった人生のさまざまな可能性を奪うことであった。
テクノロジーも同じ結果を招くかもしれない。たとえば、出生前検査によっては出生そのものが阻止されうるし、遺伝子操作によって親の望むような子どもにされる場合もその子の無限の可能性が無にされうる。
では、全体主義やテクノロジーによる人間疎外にはいかに立ち向かったらよいのか。
アーレントは人間の思考活動と対話、議論と合意から政治思想を練ろうとし、ヨナスは超越的なものを前提にする生命の哲学を築こうとした。
両者は別の道を歩んだ。アイヒマン裁判をめぐっては一時期決別もした。
しかし、共通点もあった。もうひとつは、ブルトマンの新約聖書ゼミの受講生であり、その中でたったふたりのユダヤ人であったことだ。
道は違っても、方法は違っても、共通の課題に取り組むことはできるし、深いところで強くつながる可能性も人間にはあるのだろう。全体主義とテクノロジーによる疎外に抗うのであれば。
ふたりの伝記風な著述でもあり、それぞれの思想と相違点、共通点、対話がうまくまとめられて、読みやすい。思想論としては物足りない人もいるだろう。