604「これでも民主主義は止まらない」・・・「民主主義とは何か」(宇野重規、講談社現代新書、2020年)

 「政治において重要なのは、公共的な議論によって意思決定をすることです。言い換えれば実力による強制はもちろん、経済的利益による買収や、議論を欠いた妥協は政治ではないのです」(p.50)。

 憲法改正には衆参両議院で三分の二以上の賛成が必要ですが、それは議論、熟議の結果でなければなりません。議論の前から党ごとでも議員ごとにでも賛成反対を決めていてはなりません。議場で出されるさまざまな意見とその筋道によく耳を傾け、国民だけでなく近隣諸国、世界全体の人間の生命、生活、人権尊重につながる決議になるように採決に参加しなければならないのです。

 (古代アテナイでは)「民主主義は立法のみならず、司法においても貫徹されたのです」(p.60)。

 

 ところが、現代社会では、司法も律法も行政に従属している国家が多いのではないでしょうか。日本における辺野古裁判でもそれは顕著です。

 「アリストテレスは、民主主義にふさわしいのは抽選であり、選挙はむしろ貴族政治的性格が強い仕組みであると述べています」(p.85)。

 議員の世襲、派閥を見てもあきらかでしょう。

 「民主主義と自由主義はつねに矛盾なく両立するとは限らない」「民主主義との緊張関係を前提に自由を考える人々が、狭義における自由主義者なのです」(p.140~141)。

 それは現在の日本の与党名が物語っています。民主であるよりも権力者、富裕者の「自由」という名の私利を前提にしているのではないでしょうか。

 けれども、これらのことによって絶望してはなりません。

 

 「民主主義には二五〇〇年を超える歴史があるといいましたが、古代ギリシアを別にすれば、近代において民主主義の具体的な制度化が進んだのは、この二世紀にすぎません。その制度が完成したものであるとは到底いえず、むしろ今後も試行錯誤によって制度を充実させていく必要があります」(p.254)。

 

 「平等化のメカニズムは停滞したり、一時的に逆行したりすることがあっても、最終的には平等化を隔てるさまざまな障壁を破壊して前進していくはずだ・・・人間を階層化し、あるいはカースト化する仕組みを一つひとつ打破してきた歴史の方向性・・・」(p.260)。

 大日本帝国憲法から日本国憲法への移行は画期的な進歩に思われましたが、冷静に考えれば、日本国憲法下でも、日本国内外の人びとは階層化され、カースト化されつづけてきたのではなかったでしょうか。民主主義は完成には程遠いのです。

 しかし、日本国憲法には、まだ制度として実現されていなかったり、住民の価値観となり得ていなかったりする良質の精神があることもたしかでしょう。日本国憲法は発布されたものの、その精神に基づくメカニズムは、げんざい停滞中、一時逆行中であるとも考えられます。

 停滞や逆行であるならば、前進に戻さなくてはなりません。

 「『デモクラシー』に向けての進展は人類にとって不可逆のものであり、むしろ神の『摂理』といえるというのが、トクヴィルの結論でした」(p.143)。

 

 

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