柳田に興味があったわけではない。柄谷が自著で柳田に触れ、本書を編纂したと言うからだ。柄谷が柳田を引用する理由は、本書の「解題」における柄谷に言葉に現れている。
ぼくは、柳田にとくに関心はなかったが、30年くらい前に柳田の「山人」という言葉に触れた。気になったが、それ以上深めることはなかった。が、忘れもしなかった。
柳田の「農政論は「協同組合論」を中心とするものであった・・・柳田の農政論は、国家に依存しない「共同自助」による農村の自立を説くものであった」(柄谷の言葉、p.36)。
「柳田は「山の人生」について考えるようになった・・・平地の世界が国家によって統治されているのに対して、そこから脱しているのが山地である。山地には、自由で平等な世界が残存する。柳田は、先住民の狩猟採集民(縄文人)が、稲作農民によって追いつめられて吸収されるか、山に逃れたと考えた。それを彼は「山人」と呼ぶ」(柄谷、p.37)。
では、柳田自身はどう言っているのか。
「右の山村においては、土地の保有は、決して個人所有を原則と致しては居りませぬ。一定の人が宅地及び田畠として土地を利用する期間に、もちろん排他的の支配権を認めますが、それ以外の土地は共有であります」(p.64)。
「この山村には、富の均分というがごとき社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の実現で、一の奇蹟であります」(p.67)。
これは「山人」そのものというよりは、「山人」の影響を受けた山村の一例であろう。
「なんの頼むところもない弱い人間の、ただいかにしても以前の群れとともにおられぬ者には、死ぬか今一つ山に入るという方法しかなかった」(p.91)。
「稀に再び山より還る者ある」(p.92)。
倉本聰脚本のドラマ「やすらぎの刻~道」に、第二次世界大戦中兵役を避けて山に入り山の人びとと何十年も暮らしたのち里に帰ってきた猟師が出てくるが、それは、柳田にヒントを得たのかもしれない。
「山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました」(p.110)。
「日本は山国で北は津軽の半島の果てから南は長門の小串の尖まで少しも平野に下り立たずして往来することができる」(p.111)。
柳田がこれを書いたのは1926年だが、津軽半島から山口の長門まで山がつながっているのなら、先ほどの猟師のように軍国主義国家から離れる生き方も絵空事ではないと想える。
さて、わたしたちはどこに逃れるか、いや、今の抑圧社会とは違う社会をどこで築くか。柳田と柄谷の山人への想いは、権力による支配や独占のない平等なわかちあい社会への希望を与えてくれる。