この本で紹介されている30冊は、「宗教学」を意識して書かれたものとは限らない。「宗教学」という学問ができるずっと以前にのものも少なくない。しかし、これらの著作から、宗教とは、そして、神とはどのようなものと考えられてきたか、いや、どのようなものを神と呼んできたか、その一端を垣間見ることはできるかもしれない。
シュライエルマッハ―によれば、「直観」は宇宙(世界)からの働きかけ・・・神からの働きかけ、と言っても大きく間違ってはいないだろう・・・を受けとめ、「感情」を引き起こす。この「感情」こそが宗教の本来の領域である。つまり、人間が神を感じて抱く感情こそが宗教の場なのだ。
ウィリアム・ジェイムズは、「絶望的な分裂した意識から喜びに満ち安らかな統一した意識への転換に、宗教体験の典型を見ている」(p.134)。
フィンガレットによれば、儒教が先祖や親を尊ぶのは、生命の継承を尊ぶことであり、そこに「はかない個々の人間の生と死を超越して持続する生命的実在(いのち=超越的生命)」(p.133)見いだすのだ。(十戒の「あなたの父母を敬え」にもこの含みがあるのか?)
エリアーデは、「水」「石」などは、さらには「天」「太陽」「月」なども、有限なものであるが、「無限なものや超越性、あるいはまったき形而上学的実在としての聖なるものを『意味』しうる」(p.182)と論じる。
ユダヤ神秘主義者たちは「神が世界に自己流出してこの世が作られた」(p.222)という。
ヤスパースは、人間は孤独と不安に耐えて生きようとするとき、世界に主体と客体の分裂を包み込むような「包越者」「存在そのもの」「全体としての存在」(p.243)を見いだすという。この三者も神の異名であろう。
宗教学とは、神と呼ばれているものを、より説得的により深く言い換える人間の表現作業なのではなかろうか。