656   「教会にはコロナ対策も減少化対策も要らない」 ・・・「「洗礼」をめぐって: 今日聖書はなにを語っているか」(早坂文彦、ヨベル、2021年)

 リベラルな先輩がこれいいよ!と勧めてくださったので、すなおに読んでみました。意外にも、ある意味、オーソドックス。でも、やはり、リベラルでした!

 

 バプテスマのヨハネは「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3:11)と言っています。

 

 早坂さんはこれについて「火の洗礼は確かに起こったのです。しかしそれは人々が裁かれるという形でではありませんでした。それは、イエスの受難の中で、イエスご自身が裁かれるという形において起こったのです。地獄に落ちたのはイエス、永遠の罰はイエスに。これが、イエスが私たちに与える「火の洗礼」そのものだったのです」(p.16)。

 

 オーソドックスだと思ったのは、上の引用の真ん中の二つのセンテンスあたりのことです。

 

 では、イエスが弟子たちに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マタイ28:19)という時の洗礼はどのようなものでしょうか。「ここに最早「火の洗礼」は語られません。なぜなら火の洗礼はイエスの十字架において既に過去のものとなったからです。ここに悲壮感はありません。洗礼の肝心な部分(火の洗礼)は終わっているのです。あるのはその余韻、「すべての民(異邦人)」(二八19a)が無条件で与ることのできる洗礼だけです」(p.17)。

 

 どのような意味で「無条件」なのでしょうか。

 

 「洗礼はイエスに似る者となること、イエスの真似び、イエスの学びの始まりでした。これは入門の儀式でした。しかし、その入門は、割礼を要求するものではありません・・・割礼は身体的な切除を伴い、痛みを伴うものです。それなりの施術が必要ですから費用も掛かったことでしょう・・・貧乏人には手が届かないものだったかもしれません。しかし今や、イエスの真似びは、ハードルがうんと低くなった。水でいいのです。「彼らに――洗礼を授けよ。」これが意味することは、異邦人が異邦人のまま辿ることの許される道が開かれたということです」(p.42)。

 

 「こうして行いなしに、功績なしに、試練を克服する通過儀礼なしに、努力や能力の獲得なしに、割礼なしに、あるがままで入門できる道が開かれたということです。当時、マタイの信仰共同体にとって洗礼とは、間違いなくそのような意味を持つものだったのです」(p.43)。

 

 しかし、無償で受けたらそれで終わり、ということではないのです。洗礼は「イエスの真似びの始まり」なのですから。イエスの受けた「火の洗礼にわたしたちが連なる・・・それはわたしたちも、何かのかたちで、誰かのために、代理的に苦しむことを引き受けるということです」(p.44)。

 

 「水で始まるとは、入門が誰にでも開かれているということ。火で終わるとは、誰かのために生きる人生に変わるということです」(p.45)。

 

 「優しく無条件で受け入れられた者は、それだからこそ愛の中で養われ、隣人を愛する火の試練に耐える者へと鍛えられていきます。気前よく受け入れられた者だからこそ、厳しい火の裁きの代理を隣人に代わって引き受けるのです」(p.48)。

 

 ぼくは、すべての人は、洗礼や信仰の有無にかかわらず、インマヌエル、神ともにいます、という意味で、すでに救われている、と信じています。しかし、あとはどうでもよいかというと、そうではなく、二つのことが大事だと思います。

 

 ひとつは、すでに救われているということ、神ともにいますということを、自分の心身に塗り込みたいと思うのです。そうしたら救われるということではなく、あくまで、すでに救われていると信じるのですが。

 

 もうひとつは、自分が人を抑えつけていないか、人を傷つけていないか、自分の欲望を満たすためにゆえに他の人の時間や言葉を奪っていないか、弱い人のためにと言いながら自己顕示のために弱い人を利用していないか、人を差別していないか、つねに自分を点検しつつ、行動し言葉を発する生き方を習慣づけるということです。すでに救われているという感謝の念の中で。

 

 このような意味で、洗礼を受けたら終わり、すべての人は救われているからそれでよい、という考えから、一歩出る必要があるのではないかという思いを、ぼくは最近強めています。

 

 この本に戻りましょう。洗礼の話と並んで本書で印象的なものは、著者の教会論です。

 

 「「欠乏」に留まること。貧しいままでいること。弱いままでいること・・・そしてすべてを神に期待することです。コロナであれ、教会の衰退であれ、今は何もする必要はありません。未来は神が切り開いてくださいます」(p.163)。

 

 教会の信徒減少、高齢化、献金減少が止まらず、2030年には教会は危ういと言われています。それに加えてここ2年半のコロナ。どうしよう、どうしよう、と言いつつ、教会は、有効な手段を生み出せません。ああしようと言ったり、こうしようと試みてみたりしているのですが、減る一方です。

 

 けれども、著者は、「今は何もする必要はありません」と言います。この言葉の背後にはこのような著者の考えがあります。

 

 「聖書は単なる文献であることを超えて、教会の伝統という媒介物を超えて、直接生ける神がわたしに語り掛け、わたしを生き返らせる神の言葉(=聖書)なのです」(p.190)。

 

 神が教会を飛び越えて語り掛けるのなら、たしかに、教会を維持するためのコロナ対策、減少化対策など不要です。

 

 「神の民は集団の力に頼らないのです・・・神が目指すのは個人の救いなのです」(p.196)。しかし、これは、他者をないがしろにする個人主義のことではありません。「最も弱い状態、ひとりにされた状態、未熟と孤独、そこに神の力が現れる」(同)、こういう意味での「個人の救い」なのです。

 

 「宣教は、目の前の一人の救いに始まり、目の前の一人の救いに終わるべきなのです。サタンが教会を堕落させるためには、教会をこの世的に成功させればよかったのです・・・教会のあるべき姿は、計画的な伝道はしない、そして今ここで出会うひとりの救いに全力を注ぐということでしかありません」。

 

 目の前の一人を救う、目の前の一人にインマヌエルのアガペーの神を伝えるとは、じつは、ひじょうに難しいことです。神だけにしかできません。しかし、わたしたちは、その場にいつづけなければなりません。それが非常に難しいのです。コロナや減少化による組織衰退対策を練る以上に難しいのではないでしょうか。どちらも難しいでしょうが、前者の方が本質的であることはあきらかです。

 

 「神の奇跡の中を歩み、聖書を読み、一人が追い求められるならば、それは教会です」(p.207)。

 

 この神の奇跡とは何のことでしょうか。「教会がここにある。それは奇跡です!・・・弱さと罪深さの中で、なおここに赦されてある奇跡をひたすら愛し抜こうではありませんか」(p.148)。

 

 

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