キリスト教用語に頼らず、もっと一般的な言葉づかいで、キリスト教の神を言い表すことに関心があり、その流れで、半年ほど前から、ティリッヒに立ち寄っている。といっても、ティリッヒについての本を数冊読んだだけで、ティリッヒ自身の著作は、三冊しか読んでいない。
主著である組織神学全三巻も読んでいない。難解らしい。でも、少しは触れてみたいということで、本書を読むことにしたが、こちらも、わたしには難しかった。少しだけわかったつもりになった個所だけを挙げておこう。
「人間でも、物でも、事件でも、存在の神秘をになうものとなり啓示の媒介となりうると、ティリッヒは主張する。原則的には何物といえども啓示から除外されるものはない。しかし同時にいかなる人物、いかなる事柄もそれ自体で、私たちの究極的関心事を示すに値しない。ただどの人物、どの事柄も、その背後に示されている実在それ自体に参与する場合にのみ、啓示の媒介となりうるのである」(p.36)。
「いかなる具体的な啓示といえども、そのものが、人を究極的に関わらしめるものではないが、その啓示は真に究極的なものがあらゆる具体性を超えてあることを示しているのである」(p.41)。
すべてのモノは、それに触れる者に神を伝えうる、ただし、その者がそのモノの背後にある神と交わる場合に限られる、というような意味だろうか。
では、神とは何か。キリスト教では、神は、創造者であるとか、救済者であるとか、ともにいる者であるとか、述べられている。
「ティリッヒは、こういう存在理解から「神の存在(the being of God)は、存在それ自体である」と主張する・・・彼の定義する存在それ自体は、あらゆる有限的存在を無限に超越するが、逆にあらゆる有限なものは、存在それ自体とその無限性に参与するのである」(p.49)。
ここでは、神は「存在それ自体」と呼ばれている。あるいは「無限」と形容されている。「無限」は人間の有限との対比で理解できそうだが、「存在それ自体」とはなんだろうか。存在の源ということだろうか。世界には「いろいろなものが存在している」が、神は、「いろいろなものが」のひとつではなく、「存在している」という述語そのものだということだろうか。
「神は、人間と究極的に関わるもののための用語なのである」(p.58)。
つまり、神とは、「人間と究極的に関わるもの」を言い表す用語であるという意味だろうか。
つぎに、キリストとは何か。
「キリストが、本質と実存とのギャップを克服する本質的存在、それも実存状況下にある本質存在としてとらえられる。これが、彼の言う「新しい存在」である」(p.69)。
本質とは人間が神と完全につながった宗教的理想の状態、実存とは神と完全にはつながってない人間の実態、いわば「古い存在」であり、キリストは、人間がこれを乗り越えて神と完全につながる「新しい存在」という意味だろうか。
「キリストこそ、人間を古き存在から、つまり実存的疎外とその自己破壊的結果から救うところの新しき存在である」(p.90)。
では、聖霊とは何か。
「人間の本性は、元来創造されたものであるけれども、同時に人間は神から疎外されている実存である。したがって現実の生は、本質的要素と実存的要素との混合である。これが、生の両義性の原因である・・・しかし生は・・・必ず一義的な生を求める・・・そこで霊的世界が、求められるのである」(p.98)。
キリストは、本質と実存のギャップを乗り越えた「新しい存在」である。聖霊は、本質と実存という両義的状態を乗り越えさせる神の力、霊的世界はそれが働く世界ということであろうか。
最初に述べた啓示の問題にもつながるが、最後に、宗教と文化の関係についての言葉を紹介したい。
「宗教は、文化なしには、たとえどんなに意味深い沈黙においても、それを表現することはできない。宗教は文化から意味深い表現のあらゆる形式を受け取るのである。また文化は、宗教の示す究極的なものの究極性なしには、文化の深層もその無尽蔵性を失うのである」(p.130)。
ティリッヒの言葉は、キリスト教をより一般的に説いているだろうか。むしろ、難解にしていないだろうか。その両義性も、聖霊によって一義的にされていくのかもしれない。