「人は皆、罪人です」などと言われたら、「いや、わたしは、悪いことなんかしていない」と思う人が大多数なのではないでしょうか。「神がどうの」などと言われたら、「いや、神なんているわけない」と思う人がほとんどなのではないでしょうか。
けれども、「罪」とは「分離」のこと、「神」とは「無限で無尽蔵の深み」「あらゆる存在の基礎」だとティリッヒは言います。罪とは法律や道徳や神の掟に背くことです、と言われるよりも、罪とは本来の自分自身からも他の人からも自分の根源からも離れてしまうことと言われた方が、まだわかるのではないでしょうか。不思議な力を使って人間を助けてくれる神がいるなどとは思えない人でも、人間や生物やこの世界には源泉がある、根本、根底があると言われるとそうかもしれないと思うかも知れません。
ティリッヒは神学者ですが、教会で説教もしていました。その際に、キリスト教の外から来た人びとには、昔からの聖書用語、キリスト教用語では伝わらない、「聖書や教会で使い慣れている用語の指し示している人間経験を別な用語で表現する言葉を探す必要に迫られた」(p.3)と言います。
「訳者あとがき」ではそれをこのように言い換えています。「神学の目的は、第一に永遠に変わらない基本的な教え(ケリュグマ)を伝え、第二にそれを今の時代の状況に新しく解釈(アポロギア)すること」(p.244)。もっとも、これは、ティリッヒの記した神学書「組織神学」第一巻で述べられていることです。
さっそく、ティリッヒの説教を覗いてみましょう。(訳者はティリッヒから「もし私の説教を引用するなら、部分的ではなくて、全部を引用して欲しい」(p.246)と言われたそうですが、おゆるしください。)
「私たちの世界が消え去り粉砕されていく中で明らかにされるのは、動かず、変化せず、震え動かない永遠の何かがあるということです。限りあるものの限界において無限のものが見えてきます。永遠なるものの光の中で初めて地上の移ろいやすさが明らかになるのです」(p.22)。
ここで注目すべきは、ひとつは、キリスト教用語の「神」「主」が「動かず、変化せず、震え動かない永遠の何か」「無限のもの」「永遠なるもの」「永遠なるものの光」とわかりやすく(?)言い換えられていることです。
もうひとつは、「世界が消え去り粉砕されていく」「限りあるものの限界」「地上の移ろいやすさ」というように人間の弱さ、世界のもろさが言われていると同時に、「震え動かない」「無限のもの」「永遠なるもの」が並置されていることです。
たがいに矛盾するものが並置する、マイナスの状況がある、しかし、同時に、そこに目に見えないプラスがある。これも、ティリッヒの思考の特徴のひとつであると言われますが、これは、たとえば、神の恵みはつまり「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というような聖書の言葉の翻訳とも想像されます。
「この捕囚された民つまり十字架につけられた人が(後のキリスト者たちはそう理解しました。それは歴史的には間違っていますが精神的には正しい解釈です)」(p.36)。
旧約聖書のイザヤ書53章に「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」とあるのですが、この「彼」は、歴史学的には「バビロン捕囚を経験したイスラエルの民」のことだとティリッヒは考えます。しかし、このイザヤの時代から数百年後、キリスト教とはこの「彼」をイエスと見なします。それは、歴史的には間違っているけれども、「精神的には」(「霊的には」「信仰的には」「神を求める精神には」という意味だと思いますが)正しい、と言うのです。このあたりも、たがいに矛盾するふたつのものを重ねてみるティリッヒの見方なのかもしれません。
この説教集の七番目の説教は「実存の深み」と題されています。「弱い人間、もろい世界の深いところにあるもの」という意味でしょうか。
この説教で、「深い」は「高い」の反対語であると述べられています。神は天の「高い」ところにいるとキリスト教では言われていますが、ティリッヒは神につけられるべき形容詞は「深い」だと言うのです。もっとも、これは、「神の深み」という聖書の言葉に由来しています。聖書は、神は「高い」と言いつつも、頻度は少ないですが、「深い」とも言っているのです。
「この無限で無尽蔵の深みとあらゆる基礎の名を神といいます。この深みこそ、神という語の意味することです」(p.80)。
「私たちの歴史的生命の基礎に、歴史の究極的な深みに、飛び込みましょう。この無限で無尽蔵な歴史の基礎の名が神です・・・「神の国」とか「神の摂理」という言葉が指し示していることです」(p.82)。
ティリッヒは、さらには、これらの言葉でピンとこなければ、「別な言葉に訳し直してください。たとえば歴史の深み、私たちの社会生活の基礎と目的、あなたの道徳的政治的活動においてなんの留保もなしに最も真剣に考えること、について語ってください」と聴衆に呼びかけています。ただし、「たとえば」以下に挙げた例が自身でも今一つだと思ったのか、「おそらく、この深みは希望、端的に希望とだけ呼ぶべきでしょう」と付け加えています。
「深み」については、さらに、深みへの道の終点は喜びであり、「この喜びは苦しみより深い」(p.86)と言っています。
それから、ティリッヒは、かなり大胆なことも言っています。
「すべてのキリスト教の教理を忘れてください。イエスの招きを聞いたなら、あなた自身の確信も懐疑も忘れてください」(p.135)。
イエスの招きに気づいたなら、これは正しいと確信していた教理も、こんなものは信じられないという懐疑も、どちらも忘れなさい、と言うのです。
摂理についても、ティリッヒは斬新かつ本質に迫ることを言っています。
「摂理の内容とは何でしょうか。神さまの助けによって万事がめでたく終わるというような、漠然とした約束でないことはたしかです。不幸な結末を迎えることは多々あります」(p.140)。
「摂理への信仰の内容とはつぎのようなことです。現代のように、死が天から雨のように降ってくるとき、現代のように、残虐が多くの国や民に暴威を振るうとき、現代のように、飢えと迫害が何百万人もの人々をあちこちに追いやっているとき、そして現代のように、世界中の獄と街が人々の体と魂の人間性を歪めているとき、今――まさしく今こそ――わたしたちは、これら一切でさえが私たちを神の愛から引き離すことができないことを誇れる、ということなのです」(同)。
つまり、従来のキリスト教用語で言えば、摂理から棄てられたと見なされる人びとを、用語を言い換えることで、しかも、ただ言い換えるだけでなく、積極的に再定義することで、ティリッヒは救おうとしているのではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙8章でパウロはこう言っています。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」「キリストがあなたがたの内におられるならば」「神の霊によって導かれる者は皆、神の子です」
これを読んで、ティリッヒは、この個所は「パウロに現され、歴史に示され、彼の全存在を変えた新しい現実」(p.173)を語っていると言います。そして、この「新しい現実」「新し実在」をパウロは「キリスト」と呼び、「聖霊」と呼んだと。つまり、キリストも聖霊も、わたしたちを新しくしてくれる、それ自身新しい何か、新しさそのもののことであると。
さいごに、もう一か所だけ引用します。「待ち望むとは、持たないことと持つことを同時に意味します。というのは、私たちは待ち望んでいることを持っていないからです」(p.196)。
ここでも、「持たない」と「持つ」という矛盾する事態が同時にあるとティリッヒは言っています。
「彼らは神を所有しませんでした。神を待ち望んだのです」「神は、私たちが神を持たない限りにおいて、まさに私たちの神です」(p.197)。
わたしたちが神を「所有」したり「持っ」たりしたら、それは、わたしたちが神はこうだと決めつけ、わたしたちが神を造り出すことになってしまいます。神はそういう意味でわたしたちに所有されないのです。
「しかし、待ち望むとは、持たないことでありながら、持つことでもあります。私たちが何かを待ち望むという事実が、ある意味ではすでにそれを所有していることを示しています」(同)
「もし希望と忍耐の内に待ち望むなら、私たちが待ち望むものの力は、すでに私たちの中に働いています。究極的な意味において待ち望む人は、その待ち望むものから遠くありません」(p.198)。
ティリッヒは、キリスト教を他の言葉で言い換えているだけではありません。言い換えるために、あるいは、言い換えることで、キリスト教の用語で封じ込められていた聖書の深みを探ろうとしているのです。
そして、これは、ティリッヒひとりの仕事ではなく、聖書を味わう人すべてがなすことではないでしょうか。