聖書には、処女降誕、病気の癒し、嵐の鎮静、復活など、科学的には信じられないことがらが満ちている。また、大虐殺など歴史や社会に起こる残酷な出来事ゆえに、神の存在を疑う人びともいる。
奇跡をそのまま信じなさい、大虐殺も神が起こしたと信じなさい、ということなら、現代人の多くはキリスト教を信じられないだろう。
では、著者はどのようにキリスト教を信じているのだろうか。
「懐疑と信仰のバランス」(p.4)。バーガーは、キリスト教のある部分は疑問に思っているが、ある部分は、というか、彼にとって大切な部分、中心部分は信じているのだ。現代人にはそういう信仰は少なくないだろう。ぼくもそのひとりだ。
「日常生活の現実を超えたある実在」「恵み深い深淵な実在」(p.13)。「実在」を「何か」と言い変えるならば、神の存在は信じなくても、このような「何か」を感じる人はかなりいるだろう。
「信仰とは、『世界は善いものである』という信頼」「信仰とは、『最後には喜びがある』ということに賭けること」(p.22)。信じるとは、自分の生きている世界は大丈夫、自分を支えてくれる、と信頼感を持つことであり、最後には喜びがある、と希望をもつことである。
バーガーにとって神はまた「人間一人一人の無限の価値」(p.28)をけっして否定しない存在である。
「わたしは人間の現実の中に『神が語りかけている』というしるし、『神の隠れた実在のしるし』(明確ではないが)を見いだすことができる」(p.31)。
それは、たとえば、ベートーヴェンの第九に表現されている「永遠を希求する喜び」、「人間を超えた宇宙の秩序を求める人間の傾向」「遊びやユーモアの中で豊かな暗示力をもつ経験」「希望をもたずにはいられない人間の傾向」「道徳的判断の確実性」「美の経験」といった「超越のしるし」「神の実在の予感」(p.32)である。
「わたしは、この宇宙が(あるいは宇宙がいくつあろうとも)、ある慈しみに満ちた計り知れない知的存在者によるものであることを、容易に想像できる。その知的存在者は、われわれが人格という言葉に関連付けるような性質をもつに違いない、ということも容易に想像できる」(p.98)。
たしかに、夜空を見れば、特定宗教の信者でなくても、これに近い感覚を持つ人は多いのではなかろうか。世界と宇宙のあり方に、知性と愛を感じるのである。
「神の謙遜は善意の究極的拡張であり、復活は全能の究極的表現である」(p.123)。つまり、聖書に書かれている、神の子の地上への誕生や十字架の死は、神の人間と世界への究極の善意をあらわしており、キリストの復活は、神が全能、世界の最良の統治者であることを示している、というだろうか。
「言葉で概念化しようとすれば口ごもるしかない」(p.124)。神、いや、言葉で言い表せないものを言葉で言い表そうとすれば、どうどうと言い張るのではなく、詰まりながらなんとか語るしかないのである。ここにも懐疑と信仰のはざまがある。
それにもかかわらず、「キリスト教信仰の根本的命題だけははっきりしている。神は、宇宙の果てにある銀河も、わたしの隣人の子どもも、ご自分の創造した世界の一つ一つに至るまで、けっして見棄てることがない、ということである」(p.298)。
「タリタ・クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)。これは、「キリストによって途方もなく大きな救いの力が世界に放たれた」ことを語る。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)。これは、「神は被造世界のすべての苦しみをともにし、その修復を始められた」ことを現わす。
そして、「マラナタ」(主よ、来たり給え)。これは、「キリストが勝利者として再び来たり、被造物を神が意図された本来の栄光へと立て直してくださる」ことを伝えている、とバーガーは言う。
こうしてみると、バーガーは、キリスト教信仰をすっかり合理的に解釈しようとしているのではなく、懐疑は懐疑、信仰は信仰として、そのバランスを生きたのであろう。