「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」(若松英輔、2014年、河出書房新社)
神などいるわけがない、死者がここにいて語りかけてくるはずがない、と思う人でも、自分には何か、起源か根源か、そのようなものがあることをまったく否定してしまうことはできないのではないでしょうか。すくなくとも、自分が起源もなく、いきなりここに出現したなどとは言わないでしょう。
木は、自分に根があり、その根が土中に広がり、支えられていることを、また、大地に自分の根源があることをすなおに認めることでしょう。死者とはその根源に帰り、そこに直結して生きている人びとのことであるならば、根の存在を信じる者は、死者との交わりも信じうることでしょう。
遠藤周作さんはキリスト教を和服に仕立てようとしたとするならば、若松英輔さんはキリスト教や聖書「も」現そうとしたこの世界の根源を、歴史上のさまざまな霊性の伝統(本書では柳宗悦、井筒俊彦、原民喜、安岡章太郎、池田晶子、伊藤せいこう、リルケ、フランクル、イスラム思想家・・・)から示そうとしているのかも知れません。彼はカトリックであることを隠しもしませんが、とくに擁護も宣伝もしていません。
ぼくは若松さんを読むにつれ、キリスト教が唯一正しい宗教なのではない、それにもかかわらず、キリスト教「も」世界とわたしたちの根源、そして、その根源からあふれる恩寵も語っている、と考えるようになりました。
キリスト教だけが唯一真の宗教とは以前から考えていませんでしたが、聖書に記されているイスラエル、ユダヤ、イエス、教会の歴史の独自性も無視できないと思ってきました。けれども、独自性と排他的唯一性は切り離せるのではないでしょうか。聖書が語る独自の歴史の中で、世界の根源である神はご自身とその無償の愛を現してきました。けれども、それは唯一の顕現ではないのです。しかしながら、ぼくは、他の宗教に敬意を払い、その叡智に学びつつも、キリスト教に身を置き続けます。ぼくにとって、これは、母語で考えることと同じです。ただし、ぼくたちの中には、母語、言語で言い表される前の何かが現われていることもたしかです。
本書にはつぎのようにあります。
「想像するとは、毎瞬新しく創造される世界を感じる営みなのである」(p.129)。
「(引用者注=11世紀ペルシャの学者)スフラワルディーは、万物の根源を「光」であると考えた。彼方から差し込む「光」が、すべてに存在するという働きを付与する」(p.133)。
「コトバは物体であるよりも、働きである。存在者を世界に在らしめる力そのものを意味する」(p.140)。
キリスト教の使徒信条には「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず」とあります。「天地の創り主、全能の父なる神」とは、上で述べられている「創造」者、「光」、「コトバ」にほかなりません。
本書にはまたつぎのようにもあります。
「死者はどこにも過ぎ去らない。いつも私たちの傍らにいる」(p.21)。
「死者は生者と協同して、未来を築こうとする」(p.71)。
使徒信条には「聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠(とこしえ)の命を信ず」とあります。「聖徒の交わり」とは「死者と生者の協同」、「体のよみがえり、永遠の命」とは「死者」にほかならないと思いました。