須賀敦子と言えば、イタリアに造詣の深いエッセイスト、小説家、翻訳家、といったイメージが強いのではなかろうか。
けれども、本書では、須賀の霊性がゆっくりと味わわれている。
須賀も、そして、著者の若松英輔さんも、キリスト教はカトリックに属する、と言って、とりあえずは間違っていないだろう。
しかし、須賀も若松も、カトリックが唯一正しい宗教だ、その神こそが真の神だ、カトリック教徒になれば神から救われる、などとは考えていない。
ふたりにとって、カトリックは、世界をいまここにあらしめる、世界の根源への愛しい小道ではなかろうか。
わたしたちが生きる世界、そして、わたしたちを含む世界を、ひとつの池だとする。その池の深い底には、泉があり、泉が絶えず水を湧き出すことで、池は存在することになり、存在し続けている。
小道はひとつだけではない。「東洋的霊性とキリスト教の間の高次の交点を見出すこと、それが生涯を貫く彼女の仕事になった」(p.17)。霊性とは、源への小道のことであり、源からの小道のことでもある。それを辿ることに、須賀は生涯をささげた。書くことも、書かないことも含めて。
「『霧の向こうの世界』は見えないが、確かに存在する場所だった。それだけでなく言葉は、その世界に届く、と彼女は感じている」(p.21)。須賀は霧の向こうに向かって書いていたのだ。
「霧は死者の姿を映さない。しかし、その向こうで『生きている』ことを告げ知らせている」(同)。霧の向こうに死者がいる。それは、そこが世界の泉であることも意味している。
池を釣り上げて、縦に直角にまわしたら、霧の森になる。そして、その向こうに、世界の源泉があり、死者が生きている。