553 「見失った根源へ、感じ損なった永遠へ」・・・「読書のちから」(若松英輔、亜紀書房、2020年)

 「マッチ売りの少女」は悲しいお話だった。だが若松さんは言う。「この作品は、生者と死者の世界を貫く悲愛の物語にほかならない・・・悲しみの種子が愛(かな)しみの花へと変貌していく物語」(p.127)。悲哀ではない。悲愛だ。ああ、マッチをするとはこういうことだったのだ。

 

 さて、この世界の根源なるもの、そして、永遠なるものを、人に伝えるものは何か。宗教。しかし、宗教だけではない。文学、詩、言葉もそうだ。

 

 キリスト教会にはいま人は来ない。人をひきつける方法はいろいろ試されているが、功を奏していない。しかし、人が去っていく時は、宗教が自己を見直す機会ではなかろうか。

 教会は、人数を増やすこと、自分の宗教の独自の教義を真理として唱えることには熱心だったかも知れないが、より根本的な事、世界の根源や永遠を伝えようとしてきただろうか。

 

 若松英輔さんはカトリックキリスト教徒だが、ぼくが読み始めたころ、キリスト教にはほとんど触れていなかったように思う。最近になって、ようやく、しかし、押し付けがましくなく、独善的でなく、この宗教を語るようになってきたのではなかろうか。

 

 ぼくは、プロテスタントキリスト教会の牧師だが、若松さんのような言葉こそが、いまの教会の危機にはとても良いと思う。ただし、それには、キリスト教徒も狭い宗教のドグマに閉じこもらず、世界の根源と永遠という壮大なものに開かれることが望まれる。

 本書では、若松さんは、控えめだが、キリスト教を引用している。彼がわたそうとしてきた橋は宗教を孤島ではなく陸続きにしてくれるのだろうか。

 

 本書には、仏教や哲学、文学の言葉とともにキリスト教の言葉も並べられている。そのことによって、これらの言葉の共通の意味があきらかになり、それは、じつは、キリスト教の核心でもあることがはっきりしてくる。

 新約聖書のマタイによる福音書の一節。部下が死にそうだ。助けてください、と隊長は言う。イエスは今すぐ行くと答える。しかし、隊長は「ただ、お言葉をください。そうすれば・・・」と言う。

 イエスの言葉に魔術があるというのではない。若松さんは、ここに言葉の力、「読書のちから」があることを見抜いたのだ。しかも、その言葉は、たんに記号としての言語ではなく、世界を存在させるロゴスである。

 「『新約聖書』で語られている言葉は、私たちが社会生活で用いている記号的な言語ではない。それは、まなざしやさまざまな行為の姿をとって告げられる聖なる意味だといってもよい・・・『新約聖書』における言葉をここでは哲学者の井筒俊彦にならって「コトバ」と書くことにする」(p.43)。

 

 「絶望とは希望を見失った状態である。だが、それは希望が失われたことを意味しない」(p.71)。

 

 はじめの文とつぎの文の違いがわからず、ぼくは読み直した。まさに「見」を見失っていたのだ。

 若松さんは何頁かさきでこれを仏教の言葉でも言っている。

 

「同様のことは『無常』にもいえる。『常なるもの』が無くなったのではない。それを感じることができなくなっているだけだ」(p.80)。

 

 「常なるもの」はひとつまえの引用で言えば「希望」であり、もうひとつまえの引用では「コトバ」だ。

 

 宗教は、キリスト教会は、わたしたちが感じ損なっている「常なるもの」、見失っている「希望」、読み損ない聞き損なっている「コトバ」、感じ、見、読み、聞く場に戻れないだろうか。

 

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