155 「3・11の死者のことを小説にしていいのか、という小説」

 「存在しない小説」(いとうせいこう、2013年、講談社

 3・11文学、と呼びたくなる小説がいくつか書かれてきました。池澤夏樹「双頭の船」、津島佑子「ヤマネコ・ドーム」、佐伯一麦「帰れぬ家」、重松清「きみの町で」、佐々木中「らんる曳く」、そして、いとうせいこうの「想像ラジオ」。本著はもうひとつの「想像ラジオ」と言っても良いかもしれません。

 けれども、大地震と大津波原発放射能広域汚染の、死者、被害者を、小説にしてしまって良いのでしょうか。冒涜ではないでしょうか。死者のこと、被害者のことが、どれだけわかり、どれだけ書くことができ、どれだけ読むことができる、というのでしょうか。書いて書けるものなのでしょうか。書くとして、如何に書けば、何がどれだけ、読まれるのでしょうか。

 そもそも、自分以外の人のことを書いたり、読んだりできるのでしょうか。もっとも身近な人のことであっても、そう簡単に書けるものではないし、「書かなくてもわかっている、わかっているが書けるような性質のものではないんだ」と言うことは、きわめて不遜だと思います。自分も他人も、人から簡単には分かられたりしない、かなりややこしいものではないでしょうか。わかった、ということは、おまえはおれのものだ、おまえはおれの手中にある、と言うことと同じなのです。

 他者のことは書けません。したがって、世の中には小説も書けませんし、存在しません。私小説でも、私という他者の話です。

 けれども、他者以外に書くことがあるでしょうか。書くことは皆、わたしが知らない他者のこと、わたしの外にあることなのです。

 他者のことは書けない。他者のことしか書けない。このジレンマは、どうしたらよいのでしょうか。

 本書には、3・11の死者についての小説を書いて良いのか、どのように書くのか、どのように読むのか、という「存在しないテーマ」が動いています。

 ペルーの山奥を舞台にした二つ目の短編では、大時計は一時四十六分で止まっていました。三つ目の作品では、豪雨で川が増水し、マレーシアの女の子が家に帰れなくなります。六つ目のクロアチアの海は、弓なりになり、爆発して、主人公は、呑み込まれてしまうのではないかと感じます。

 死者を思わせる顔のない女がうろついていた、というアンデスの村びとの証言があります。四つ目の東京・能楽堂では、殺された漁師が成仏する演目がかけられます。アドリア海のリゾートホテルの警備員は、罪の告白と赦し乞いのために死者を呼び出し、自分も半透明になりつつあると思います。

 村を訪れた小男の日本人は「傑作は歴史の中に点々と隠れている・・・そいつを見つけ出し・・・こっちの世界に引きずり出す」と言います。死者とは歴史と言い換えても良い、という批評家若松英輔さんの言葉が思い出されます。

 「女の目からは、地底から噴き出すと止まらない黒い石油のように涙があふれた。同時に彼女が経てきた苦難の歴史が言葉となってよどみなくこぼれ出した」(p.72)。この女はまさに死んだのです。しかし、その歴史から言葉が出て来る、ここに小説の可能性があります。

 マレーシアの女の子は市場で見た死体について細かく書いた作文を出すと、教師から、まともじゃない、皆が気分よく読める話にしなさい、と叱られます。しかし、友人は、書かないと胸の中で暴れるから書いたのだから、それを読むのが教師の役目だし、それが読者の醍醐味だ、と言ってくれます。女の子が著者に、友人が読者に重なります。

 読者が読むことで、小説は動き始めるのかも知れません。

 「私はそこにいたはずもないのに、深くぬぐいがたい記憶を持っている」(p.243)。当事者でないものが、3・11に語りうるのか、語るとすればどうやってか。正解ではなくても、答案用紙を埋めて提出しようという著者の意志を感じます。

 フィラデルフィアの父と母と息子と恋人の話、ペルーのノーベル賞作家リョサの影響を感じさせる「リマから八時間」、有川浩レインツリーの国」を思い出させる、マレーシアの11歳の「あたし」、五つ目の香港の金ぴか短編「ゴールド」の終わり方には、すがすがしさや救いを覚えました。他の二作はやや難解に感じました。セックスの話が出て来るのは良いのですが、やはり、男目線というか、男性以外がどう感じるのか気になります。

 ところで、これは「存在しない誤読ノート」なのでしょうか。

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