井上ひさしさんは死んだので、戯曲や小説はもう出ないけれども、本書のような出版のおかげで、文字通り「『井上ひさし』を読む」ことが続けられます。
しかも、小森陽一、大江健三郎、辻井喬、平田オリザ、ノーマ・フィールド、そして、井上ひさし自身、といった面々と一緒に、「日本人のへそ」「吉里吉里人」から「ロマンス」「組曲虐殺」にいたるまで、珠玉の作品を横断できます。
「歴史的な記憶をどう思い起こし、死者とかかわりなおすのか」(小森、p.23)。「父と暮らせば」「頭痛肩こり樋口一葉」など、井上作品ではたしかに死者は常連でした。
しかし、死者は、広島のおとったんのように、過去に戻ろうとする生者をむしろ未来へと押し出します。
「過去を考えるとき、現実にならなかったものも共存させて考える、その方向でリアリティーを全開にしてみせるというのが劇作家のやれることだし、小説家も言葉だけでつくる舞台でそうしたいと、ぼくは考えます」(大江、p.129)。
現実にならなかった過去であっても、書き手の言葉によってリアリティーを与えられ、あらたな現実を生み出す力になるのではないでしょうか。言葉を発する者皆の課題でもあると思います。
本書がまさに死者との対話そのものかもしれません。そもそも、文を読むことそのものが死者との対話であるとも言えるのですが。そして、文を読むことは前に進むことなのです。