重松清の小説は、どこか、あたたかい。救いがある。しかし、空想小説ではない。現実の厳しさを作家はかなり知っている。それをリアルに描いている。けれども、それだけではない。やさしさがある。
離婚、親の離婚、単身赴任、親の介護、スポーツの挫折、家族の死、街の壊滅。11連続四球。奇跡は起こらない。ファンタジーではない。まるで、読者の人生そのものだ。これらの舞台のどこに希望があるのか。
作家は、死者と子どもを動かし語らせる名手だ。舞台となる草野球チーム「ちぐさ台カープ」のひょうひょうとした老監督は、広島原爆で家族を失くした。あたたかだが、不思議な人だ。彼自身死者に近いのかもしれない。
離婚したばかりの洋子四十才の娘香織中学二年生は良くしゃべる。しかも鋭くしゃべる。重松作品に出てくる子どもたちは、読者が同じ年齢だったころより、ものごとをずっとよく見たり、分析したり、それを言葉にしたりする。
死者と子どもたちを案内人に、カープが起こす奇跡。いや、奇跡は起こらなかった。起死回生の大逆転劇は野球の試合にも、人生にも起こらない。
ただ、彼らにはチームの仲間がいた。そんなに熱くもない。べたべたでもない。でも、解散となると涙が出るような仲間。いまどき、チームなんてものがあるだろうか。仲間がいるだろうか。そんな草野球チームがある。それこそが、奇跡であり、ファンタジーだ。
でも、それだったら、もしかしたら手が届くかもしれない。見てないだけで、じつは、そこにあるかも知れない。だから、絵空事ではなく、希望なのだ。死者と子どもたちがそれを教えてくれる。
聖書を読むと、イエスは「神の国が近づいた。しっかりそれを見なさい」と言う。神などいるものだろうか。けれども、やはり、見てないだけで、そこにいるかも知れない。やさしい友がいると、そう思う。