批評家でありカトリック信者である若松英輔さんが教皇フランシスコの言葉を深く味わう。
「教皇は、アッシジの聖フランシスコが象徴するものとして、貧しさ、平和、被造物への畏敬がある、と語った。『貧しい人』たちと共にあること、真の意味における平和を実現すること、そして人間だけでなく、すべての被造物、すなわち自然に畏敬の念をもって接することが教皇としての彼の根本問題だ」(p.70)。
現教皇はアルゼンチンの出身だ。ラテン・アメリカの諸教会は二十世紀後半の軍事政権下、「解放の神学」を生み出した。「貧しさ」「貧しい人」はこの神学のキーワードに数えられる。ブラジルの解放の神学者ボフは「アシジの貧者・解放の神学」を著し、解放の神学の源流のひとつに聖フランシスコを位置付けている。現教皇が「フランシスコ」を名乗るのはじつに象徴的だ。
「貧しい人に大切なものは金銭的、物的支援ではない」(p.81)。これは誤解を招くだろう。ペルーの解放の神学者グティエレスは、貧しい人びとは、パンとともに神の言葉に飢えている、と述べている。
「彼が考える『貧しい人』とは、経済的に貧困にある人はもちろん、さまざまなる『貧しさ』にある人々を指す」(p.81)。お金がない人、人種や民族、セクシャリティ、職業、経歴、心身の状態・特徴、経歴、容姿、雰囲気、人々の評価ゆえに差別されている人びとは、解放されねばならない。衣食住、そして、他者の眼差しにおいて、尊厳が回復されなければならない。
「核兵器に関してはさらに踏み込んだ発言をし、その存在が認められないことを教理として明記するべきだとすら語った」(p.96)。これには驚いた。しかし、たしかに、教理に明記すべきことがあるとしたら、このようなことであろう。
「『貧しい人』たちに施しをしなくてはならない、と教皇はいわない。そうした人たちとともに生きられる社会を作るのがキリスト者の使命だと説く。さらに私たちは『貧しい人』に学ばねばならないというのである」(p.106)。
たしかに、貧しい人たちに「施し」をしてはならない。「施す」のではなく、奪うのでもなく、独占するのではなく、多く所有するのでもなく、「わかちあう」ことが求められているのだ。貧しい人から学ぶことは、ひとつは、一部の人びとが搾取し独占するから貧しい人が生まれるということ、もうひとつは、聖書によれば、神はその人びとを顧みて解き放とうとしている、ということである。
「教皇は、自らの言葉を届けるためだけに日本を訪れるのではない。語ることを奪われた死者たちの声に耳を傾け、かなしみのなかに生きる者たちに敬意を表すために来るのだろう」(p.35)。
「死者」や「かなしみ」は若松さんの鍵言葉である。フランシスコにそれを見るのは若松さんならではの掘り下げだ。
「『いのち』は、人間がつくり得ないもの、人間が『超越』から与えられるものです。そして、人間と人間、人間と自然をつなぐものでもあります。『いのち』のはたらきが崩れると、人は他者とのつながりが見えなくなる。貧しい人たちに対しても無関心になるのは必然です」(p.47)。
「いのち」も若松さんの重要語だ。この引用において、アシジのフランシスコ、教皇フランシスコ、若松英輔さん、解放の神学の霊性が重なりあっている。