152 「死者は、死を乗り越えてくれ、わたしとともにいてくれる」

講演「光は、ときに悲しみを伴う〜クリスマス・キャロルを読む〜」(若松英輔さん、2013年12月7日、「ミシュカの森 2013」として) 

 世田谷事件遺族の入江杏さんらによる「ミシュカの森」実行委員会の皆さんが、「魂にふれる 大震災と生きている死者」などの著作や講演などで死者の実在を伝える若松英輔さんを招いた講演と対談、朗読の企画。

 ぜったいに。本当に。真実。すごい。とっても。どうしたって。ぜんぜん。大事。かぎりなく。うたがわない。

 これらの言葉を、若松さんほど、うそではなく、思い込みでもなく、おしつけがましくもなく、あやしげでもなく、ためらいなしに、ささやくように、けれども、すきとおって使える人を、他に思い出すことはできません。

 「19:12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(旧約聖書・列王記上)

 これを思い出しました。けれども、若松さんご自身は、自分が伝えるのではなく、言葉が自分を通過する、と言っておられます。火の後に静かにささやく声が若松さんを通過したのかも知れません。もっとも、これは若松さんだけでなく誰にでもあること、と言った方が、若松さんにも賛成していただけるとように思います。

 他に印象的だったのは「比喩ではありません」という言葉です。ディケンズクリスマス・キャロルの登場人物たちに生じる言動は、悪く言えば、絵空事、良く言って、何かのたとえ、などではなく、文字通りのことなのです。

 ぼくたちは、実在と比喩を分けて考えることに慣れていますが、若松さんは、両者の関係、あるいは、分離してしまうこと自体を問うておられるようにも感じました。若松さんを、あらたな比喩論が通り抜けつつあると想像しました。

 見えないことと、存在しないことは、違う、と言われました。希望が感じられないことと、希望が存在しないことも、違う、と。

 ぼくは、聖書には「神がともにおられる」という神の言葉が満ちていると思いますが、それを感じられないことはしょっちゅうあります。そちらのほうが常態です。感じられなくて、苦しいこともしばしばあります。でも、ぼくがそう感じられない時でも、「神がともにおられる」という言葉がそこにあり、言葉と神が実在する、それで十分だと考えてきましたので、そこから、若松さんを通過してきた言葉を聞くと、とてもなつかしい親しみを覚えました。

 「読むということが世界を創るのです」「どんな人でも瞬時に変われます」「どんなにおろかな法律ができようとも正義はなくなりません」「憲法のことは、死者、言い換えれば、歴史に聴かなければならない。歴史は概念ではなく実在です」

 こうした言葉が、政治家や宗教家のような力みなしに、さらさらと通過していきます。もっとも、それが、本質的な意味での宗教的であることを若松さんも自覚し、また、偽宗教家にさせられてしまう罠をわかっておられるのか、「こんなことを言うと、新興宗教の教祖のようですか」とも冗談めいて言っておられました。けれども、そのような、あるいは、自己啓発セミナーのようなインチキさはなく、そこには、火の後のささやく声があるのです。

 「死者は苦しんでいない。死者は幸せだ。これだけはぼくはうたがいません」。

 この言葉は、ぼくをあらたな地平に誘ってくれる予感がしています。ただたんに、その通りだと思うだけでなく、ここから、さらに何かが開かれていくように思っています。この言葉の持つ希望、会場で、もしかしたら、家族のことを思っておられる方のすすり泣きを、ぼくもちっともうたがいません。

 その上で、異議ではなく、質問をしてみたいと思いました。ぼくの「宿題」でも構いません。

 ぼくたちは、人が人を殺すことに断固、否と言います。「汝、殺すなかれ」。ぼくがそう思おうと思うまいと、あるいは、ぼくがそう思えず、人を殺したい怒りのただなかにあったとしても、この言葉は実在します。

 病気になれば、できる治療は望みます。延命や高額医療などについてどうするかは、無条件ではなく、そのときどきに考えるでしょうが、常識的と思える治療そして治癒は最善になされることを望みます。死んでほしくない、死にたくないからです。

 だから、ぼくらは、日本国憲法に然りと言い、悪法に否と言います。

 しかし、人のいのちを何とも思わない人たち、ずっとそうかどうかはわからなくても、今そういう人たちに「死んだって苦しくないし、幸せなんだ」とか「ポアしてやったんだ」ということを言わせてはならないと思います。

 では、「死者は苦しんでいない」ということと「殺を断固否定する、死んでほしくない、死にたくない」ということをどうすれば、両立させられるのでしょうか。

 「宿題」ですが、今日の段階のぼくの答案は「死者は、たとえ苦しく死んだとしても、いや、それにもかかわらず、それを乗り越えて、今、ぼくらとともに実在してくれる。ぼくらを愛していてくれるからだ」というものです。言葉がぼくたちを通過するように、しかし、少し違うのは、ぼくらが言葉を通過して、死の克服と死者の実在があるように思います。

 これは、どんな死者にもあてはまると思いますが、しかし、一般論や公式的に言うことではなく、ひとりひとりの経験、実在的経験として、語られるべきことでしょう。けれども、経験と言っても、それは五感、六感の経験に限らず、聴き損なうかもしれないような、小さな小さなささやきがあったかな、というかすかなことも含まれると思うのです。

 とりあえず、ぼくの感想です。

 入江杏さん、ミシュカの森の皆さん、若松英輔さん、教えてくれた友達、どうもありがとうございました。
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