「ドゥイノの悲歌」(リルケ作、手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版)
震災以降、若松英輔さんという批評家の本に深く魅かれ、何冊も読んできました。それらの中には、これまた深みを予感させる本や著者が引かれ、リルケや「ドゥイノの悲歌」の名もそこで見つけたように覚えています。
この悲歌は思索的でリルケの他の作品よりわかりやすいという評も目にしましたが、ぼくにはそんなにすらすら読めるものでもありませんでした。どうにかわかったような気がするところには線を引き、それをさらに読み返してみると、かろうじて、つぎのようなことが浮かび上がってきます。
人は世界をそのまま見ていません。しかし、動物たちは世界をそのまま見ています。真の世界を見ていると言ってもよいでしょう。それは、起源であり、永遠です。人はそれに憧れつつも把握することはできないのです。
「すべての眼で生きものたちは/開かれた世界を見ている。われわれ人間の眼だけが/いわば反対の方向に向けられている」(p.63)。
「わたしたちはいつも被造の世界に向いていて/ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ」(p.65)。
「死をみるのはわれわれだけだ。動物は自由な存在として/けっして没落に追いつかれることがなく、おのれの前には神をのぞんでいる」(p.64)。
見ていないことは、根をおろしていないことであり、結ばれておらず、心が通っていないことでもあります。
「さかしい動物たちは、わたしたちが世界の説き明かしをこころみながら/そこにそれほどしっかりと根をおろしていないことを/よく見抜いている」(p.8)。
「われら人間は大いなるものと一つに結ばれていない、渡り鳥にも劣って、それとの心の通いがない」(p.31)。
悲歌はこのような人間に、つぎのように呼びかけます。
「風に似て吹きわたりくる声を聴け、静寂からつくられる絶ゆることないあの音信を」(p.11)。
それはどこから聞こえてくるのでしょうか。
「おのれ自身の根に沿い、さらにそれを突き抜けて/かれ自身の小さい生誕を遠く越えた強力な起源の場にはいる」(p.28)。
「われわれが愛するときわれわれの肢体には/記憶もとどかぬ太古からの樹液がみなぎりのぼるのだ」(p.29)。
この根源、そして、この永遠を見ているのは、じつは、動物だけではありません。死者たちも見ています。最初に挙げた若松英輔さんの本にも、死者は欠かせません。リルケとともに、死者こそが真の世界を生きていることを知ったのでしょう。
「おお、いつの日か死者の列に加わり、これらの星をきわまりなく知りえんことを」(p.55)。
「死者のあたらしい聴覚の両開きになったページいっぱいに/やわらかな線でかきこむ、名状しがたい音声の輪郭を」(p.83)。
「ただひとり死者は踏みのぼってゆく、『原苦』の山の奥深くに」(p.85)。