若松英輔さんの批評やエッセイは、とても詩的です。リルケなど何人かの詩人の批評もしておられますから、いっそうそのような印象があります。
その若松さんがどのような詩を書かれるのでしょうか。この詩集は、ぼくには、意外にも、散文的に思えました。詩的な批評やエッセイと比べて、簡潔で、明解で、良い意味で説明的に思えました。(リルケに門前払いを食らった者も、若松さんの詩は受け入れてくれます。)
大著数冊を含む、これまでの何冊もの著作の中で、落葉を重ねるように、あるいは、半径の大きな、ゆるやかな螺旋階段を昇るように、つづって来られた言葉が、この詩集には、凝縮されています。
若松さんのコトバ論、悲しみ論が凝縮され、しかも、素朴な姿になっています。
花が咲き出るように、涙は湧き出ます。見える涙は、「見えない涙」、悲しみの結晶ではないでしょうか。「悲しみ」は、わたしがその人を愛し、その人がわたしを愛し、ふたりがともにいる庭なのです。
「かなしみは/生者と死者が/出会う場所/悲愛という名の/楽園」(p.19)。
言葉の源にあるコトバ、言葉になる前のコトバ。かなしみはコトバに限りなく近いものです。
「おもいを/言葉の舟にのせ/こころを流れる/かなしみの調べに浮かべよ/あとは 深緋色をした/祈りの風に託すがよい/いつか/彼方の世界にたどりついて/還らぬ者たちにも届くだろう」(p.88)。
「ぼくは弱い/だから/鋼鉄の甲冑を着た/騎士にはなれない/でも ぼくの/胸をつんざいて/生まれた言葉はちがう」
胸の奥にコトバがあり、言葉を胸を破って産み出してくれます。ぼくは城門さえくぐれませんが、コトバがぼくの胸から送り出してくれる言葉は、二千年かけて地球を七周し、天に戻って行きます。