888  「死ではなく生に臨在する神」 ・・・ 「灰の箴言」(リタ・ナカシマ・ブロック、 レベッカ・アン・パーカー 著、福嶋裕子、堀 真理子訳、2025年、松籟社)

イエス・キリストが十字架につけられ死んでよみがえったことで人間は救われる、と一般的なキリスト教は唱えます。


しかし、イエスローマ帝国によって死刑にされた、つまり、殺されたのであり、人間が救われるために、誰かが暴力を受けなければならないのか、と問う人びともいます。

クリスチャンの中にもそのような問いを持つ人がいます。暴力の被害者の中には、暴力は心身を引き裂く暴力であり救済の出来事とは認められない、と声を発する人がいます。

本書の著者ふたりもそのような人びとです。

「神である親が、この死を要求することを中心的なイメージとする限り、キリスト教は、親しい者からの暴力の犠牲となった人に対する癒しを約束できないと確信した。救いを再定義する神学が欲しかった――罪人を赦すだけでなく、罪の犠牲となり痛手を負った者を癒す神学」(p.17)。

 

エスは父である神から死を求められたのであれば、それは「親しい者からの暴力の犠牲」なったということであり、このことは、「親しい者からの暴力の犠牲となった人」の癒しにはならない、というのです。

では、このような贖罪論、父なる神が子イエスに死を求めたという教えを乗り越える神学は、どのような神学なのでしょうか。

「イエスは死ぬことで受肉した神ではない。神は愛であるというキリスト教の主張が真実なら、イエスは生きることで愛を受け、そして、与えたのであって、死ぬことによってそうしたのではない。愛とは個人的な所有ではなく、互いに気遣う関係性の中に息づく聖霊のことである」(p.14)。

「物語が暴力に抵抗し、いのちを肯定する神学的なヴィジョンを証しする」(p.19)。

人を傷つけるほどに自己主張の強い相手に対し、ぼくが身を引けばよい、それがその人を赦し受け入れることだ、などと思いがちですが、本当になすべきことは、ぼくが身を引くことではなく、何とかして相手を「互いに気遣う関係性」に案内すること、どちらも死なず、殺されず、どちらも生きることなのでしょうね。

本書は上記の問いかけから始まって、ふたりの著者の物語が展開します。それは、これまで生きてきた中での大きな傷や人との出会い、交わりの物語です。

「夢も、夜空を見上げた体験も、教会生活の中の祝福も、悲しみを取り去ることはできなかったし、わたしの内面の引き裂かれた部分を修復もできなかった。しかしそれらは、宗教共同体の記憶を受容し、世界の美しさと人間の優しさを直接に体験し、未来についての生き生きとした感覚へと意識を押し広げてくれた。回復された感情の幅は、暴力ではなくて、いのちを肯定することを可能とさせた・・・犠牲の行為によって救われたのではない。わたしが救われたのは、いのちが存在するという感覚を回復することによってだ」(p.196)。

過去の悲しみも傷もそのまま残る、というのです。しかし、世界の美しさと人間の優しさを、イエスの死を媒介することなく、直接体験することで、未来に生きる感覚を取り戻した、というのです。

心身が引き裂かれそうな苦しみを味わった人の中には、イエスも同じ苦しみを味わったということに救いを見出す人もいることでしょう。しかし、そう思えない人には、このような道もある、ということはひじょうに重要なことだと思います。

フェミニスト神学者たちと一緒に、「全能の神」「児童虐待者としての聖なる神」「王なる神」を脱構築した。わたしは神を「女神」「いのちの霊」「あらゆる祝福の源」「いのちの中心にある愛」として再構築した」(p.326)。

抑圧、支配、自分の子であるイエスに死ぬことを求める、というイメージを神からとりさり、男性的暴力・支配でないもの、いのち、祝福、愛というキーワードで神のイメージを描き直す、ということでしょう。

「偶像礼拝から解放されるためには、わたしの人生の核において別の関係が要求される――所有と恐怖の関係ではなく、自己犠牲の要求と恐怖の命令に屈服しない関係である」(p.326)

人間の言葉を神の「御心」と言い張り、それを自他に強要すること、その意味で、神の所有物とされ、神に脅えること。そのような神との関係は偶像礼拝と呼ばれます。「自己犠牲の要求と恐怖の命令」とは、神はイエスに十字架上で自分を犠牲にすることを要求し、イエスはそれに従ったように、「あなたもあなたを苦しめ虐げる相手の犠牲になりなさい」と神から求められていると思ってしまい、虐待に抵抗できなくなってしまうことです。

神との関係も、人との関係も、所有ではなく独立、恐怖ではなく平安、自己犠牲ではなく共生が求められます。

「私たちは人生で経験し、自分たちの側に立って見守ってくれた思いやりに到達した、痛みと暴力という遺産をふるいにかけてきた。人生を切り開く努力の中で、神の臨在を見つけた」(p.416)。

自分たちの受けた虐待においても、そして、それと同様のイエスの十字架の死においても、神の臨在を見出せなかったが、「人生を切り開く努力」(・・・本書はその物語に満ちている・・・)の中で、神の臨在を見つけた、というのです。

それは、イエスの弟子たちも同様だと著者たちは言います。

「イエスは自身の伝統によって裏切られてきた。軍事帝国が彼を殺害した。彼の人生と仕事は、彼の死によって進められたのではない。彼の死刑執行はその共同体を破壊した。ばらまかれた灰を火に戻すのは難しかった。イエスの弟子たちは回復する道を求めた。悲しみの中で神の臨在を経験した」(p.471)。

聖書には、イエスの十字架に神の臨在を見たと思われる言葉もあります。

「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った」(マルコ15:39)。

しかし、弟子たちは、イエスの死を悲しみながら生きる中で、神の臨在を経験した、と著者たちは言います。

著者たちは、巻末で、以下のようなときに、神は私たちとともにある、と言います。

 

「陽光に照らされた午後いっしょにコーヒーを飲む友人たちと互いに発見する静かな瞬間」「涙が凍った頬を伝っている、暴力に抵抗するコミュニティのミーティング」

「夜の恐怖の中で他者を抱きしめる」(p.422)

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