764 「小説風を目指した神学談義」・・・「パウロの弁護人」(タイセン著、大貫隆訳、2018年、教文館)

 著者は小説の形で、パウロやイエスについての考えを伝えようとしていますが、ストーリー性に富んでいるわけではありません。

 

 紀元60年過ぎ、ローマ在住のエラスムスというローマ人(?)はパウロの弁護人になるように持ち掛けられます。彼にはハンナと言うユダヤ人女性の恋人がいました。そのころ、ローマでは連帯責任で400人の奴隷が一斉に処刑にされます。エラスムスはそれに疑問を持ちます。やがてネロの下、大火が起こります。はたして、エラスムス、ハンナ、パウロはどうなるでしょうか。

 

 このような枠組みの中で、著者は、登場人物の言葉を通して、自分のパウロ像、イエス像、さらには、キリスト教へのスタンスを書いています。

 

 「キリスト信奉者たちは・・・神がすでに今ここでご自分の支配を始めていると信じている」(p.100)。

 

 「新しい世界はすでに今ここで、彼らの生活の中で始まっている」(p.99)。

 

 これらは、初期のキリスト教徒たちは「神の国」をどのように捉えていたかということへの著者の見解でしょう。

 

 では、著者はパウロについては、どのように考えているのでしょうか。

 

 「パウロがまず最初に欲したのは、律法を遵守することで人間同士の平等な交わりを根拠づけることだった」(p.141)。

 

 「パウロが到達した新しい洞察は、人というものは、律法から離れて判断するときに初めてすべての人間が平等であることを認識する、ということ」(p.142)。

 つまり、パウロは、律法による救いから律法によらない救いに180度転換しただけでなく、両者には、「人間の平等」への憧れという共通点がある、と著者は言うのです。

 

 また、パウロの言葉は変化しているだけでなく、ある言葉と別の言葉が矛盾している場合がいくつもあります。

 

 その一因は、パウロには「自分をすべての人間に向かって開きたいと思う側面」と「自分が真理だと信じるものに熱狂する側面」(p.144)があることだと著者は言います。

 また、パウロは万人救済論者である、と著者は言います。「すべての人間が救われるのであり・・・福音のことをまったく知らない者たちも全員救われなければなりません」(p.225)。著者も万人救済論者だと思われます。

 

 「パウロが言いたいのは、人間と世界は根源的に変わることができるということ、その結果、愛がすべてを支配するようになり、逆に法律は不用になるということだ」(p.238)。著者もパウロの見解に同意しているように思われます。

 

 作中にオネシモの説教というものが出てきます。オネシモはイエス・キリストを信じた奴隷だったようですが、新約聖書には彼の説教は出てきません。ですから、この説教は、著者のフィクションですが、そこに著者の神学が現れています。

 

 「イエスを死の中に放置しないことによって、そのことによって神がわたしたちにおくってよこすのは、他者の故に死ぬことはもうやめにするべきだ、という呼びかけです。他者をしてわたしたちのために死なせる代わりに、わたしたちが他者のために生きるべきなのです」(p.280)。

 

 「イエスは命は別の命を犠牲にして生きて行くという法則を克服されたのです。彼が甦ったことはこの法則に対する異議申し立てなのです。神は十字架で処刑されたイエスの味方につかれた。そのことによって、抑圧と暴力が生み出すあらゆる犠牲の味方になられた。今日この日の十字架にかけられる奴隷たちの味方にもなられたのです」(p.284)。

 

これらは、著者の神学、復活論であり、イースター説教とも言えるでしょう。400人の奴隷が処刑された、というストーリーが、284頁からの引用のコンテキストになっています。

 

 神学議論のひとつに「人間が神の似姿である」とはどういう意味か、というものがあります。これは創世記1:26の「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」に由来します。これについて、本書では以下のような言葉が出てきます。

 

 「どうやって自分が神の似姿であることに気づくのかって? それはね、神が創造の業によって何か新しいものを創り出した、という点から気づくのよ。わたしたちが神の似姿であるのは、わたしたちも何か新しいことを始めることができるからなのよ」(p.318)。

 

 「わたしたちが神の似姿だというわけは、神がこの世界を変えていくことにわたしたちも参加させるからなの」(p.319)。

 

 著者は主人公エラスムスの口を通して、キリスト教を健全に批判します。

 

 「真理は多くの場所で輝く・・・イエスにおいてだけ輝いているのではなく、ソクラテスにおいても、プラトンにおいても、アリストテレスにおいても」(p.424)。

 

 「エクレーシア、すなわち民衆集会・・・この呼び名は、その集まりが自分たちの為すべきことを全員で決める集会であることを示している。それゆえその集会は共和制の原理で組織されるべきだ」(p.427)。教会はエクレーシアと呼ばれるのならば、このようなものであるべきだ、と言うのです。

 

 「キリスト教徒は自分たちの聖書も知性を働かせて読むべきだ」(p.424)。ここには、聖書を読むには聖書学的知性が必要だ、という含みがあるでしょう。

 

 これに関連して、本書ではこうあります。「神への愛と隣人への愛としての愛が最も重要なものなの。わたしたちユダヤ教徒は、神を心を尽くし、魂を尽くし、あらゆる力を尽くして、愛さねばならないと言うの。キリスト信奉者たちはそれに加えて、わたしたちは理性においても神を愛さねばならないと言うの」(p.376)。

 マルコによる福音書にこうあります。12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 著者は、「精神を尽くし」あるいは「思いを尽くし」と訳されているマルコのイエスの言葉を「理性において」と解釈したのでしょう。

 ストーリーがあまり展開せずに、登場人物の意見表明が続くので退屈しましたが、それでも、線を引いた部分をこうやって読み返してみると、著者の魅力的な神学、パウロ感、イエス感が散りばめられていたことがよくわかりました。

 

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