「学びのきほん」とありますが、初心者向けの入門知識が羅列されているのではありません。本書は、おそらくは、すでにキリスト教に親しんでいる人にも、「核心」を、しかも、あたらしい角度から語りかけてくれることでしょう。
たとえば
「アブラハムは一なる神を信じた人として、それぞれの宗教において重要な人物とされています。その一なる神が何ものなのかはよくわからない。『神』と呼ばれる何ものかが存在するとすれば、原理的に、人間の理解をはるかに超えた側面を持っていると考えざるをえないからです。アブラハムは、そうした何ものかからの強い働きかけに応え、徹底的にそれに従っていこうという精神を体現しました」(p.40)。
信仰者は自分が信じている神が何ものであるかわかっているつもりになったり、自分なりに決めつけたりしますが、ほんとうは、「何ものなのかはよくわからない」「人間の理解をはるかに超えている」「それに従っていく」ことが信仰だ、というキリスト教の核心が新鮮に述べられています。
「アブラハムは、自らを超えた何ものかの促しに導かれつつ、さまざまな困難や、自分が引き起こす逸脱、失敗を乗り越えながら、歩み続けます。つまり彼は促しに導かれて行動するだけで、そこに抽象的・固定的な『教説』は欠如している。これこそがアブラハムを、『教義』や具体的な信仰形態においては異なる三つの一神教の『共通の祖』たらしめているのです」(p.41)。
これが「きほん」だとすれば、教義に執着するキリスト教徒はこのきほんから外れていて、本書はそのような人々をきほんに導くかもしれません。
「イエスのたとえ話は、単なるわかりやすいお話というようなものではなく、聞き手が自分で考えることを促し、一人ひとりが人間やこの世界や『神』のことをどのように受けとめて生きていくのかという実践的な応答を呼び起こす力を秘めていました」(p.47)。
じつは、わたしは、キリスト教、プロテスタントの牧師をしていて、毎週「わかりやすい」お話を30年心がけてきたのですが、聞いてくださる方がたに問いかけるというきほんが欠けていたと反省し、さっそく、今度の日曜礼拝用の原稿には「皆さんはどう思われますか」というフレーズを三つ盛り込みました。たしかに、自分でどのように受けとめるのか、が大事で、それがあって、その人の中に浸みこんでいくのだと思います。
著者はまた「読んでいて何か変だな、と思うことがあった場合、そのまま受け流すのではなく、その奇妙さに少しこだわってみるという読み方」(p.51)を勧めています。
わたしは、読んでいて変に思うところがあっても、聖書はいくつもの口頭伝承を縫い合わせたものだから単一著者の綿密な文章構造を持っていない、細かく読むより大意が大事だ、として、変なところにはこだわらないで放置しがちなのですが、最近読んだ、やはりプロテスタントの有名牧師さんの説教集では、奇妙なところにこだわることで慰めに満ちたメッセージが作られていて、やはり、これもきほんであり、かつ、核心だなと思いました。
「キリスト教は、古典との創造的対話のなかで常に新たに生まれ直しています。ナウエンの場合も同様です。彼は固定された教義を信じ込むという態度ではなく、聖書やアウグスティヌスの著作をよく読み、それらと対話しながら、今を生きている人の心により届きやすいようにキリスト教を捉え直している」(p.119)。
キリスト教をアップデートするために、大昔に書かれた聖書やアウグスティヌス、そして、最近書かれたナウエンも読む、しかも、対話をしながら読むことが、きほんであり、核心だというのです。
キリスト教のきほんと核心は、進歩、発展というよりも、時代と世界を旅しながら、そこに生きる自分や人に届くメッセージを聖書から汲み取る、そういう意味での捉え直しなのでしょうね。