この本の主張は、聖書の言葉が人を育てる、ということよりも、旧約聖書の「律法」、「預言者」、「知恵(文学)」という三つの文学形式の各機能と相互作用が教育のモデルになる、ということでしょう。ちなみに「預言者」は人のことでもありますが、預言文学をも指します。
ラインホルト・二―バーという20世紀の神学者のこの言葉は有名です。「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください」
この「変えることのできないもの」は紀元前の旧約聖書の「律法」、「変えるべきものを変える勇気」は「預言者」、「変えられないものと変えるべきものを区別する賢さ」は「知恵(文学)」に似ているかもしれません。もっとも、二―バーの言う「変えることのできない」は諦めに近いイメージですが、「律法」にはひじょうにポジティブな要素があります。
訳者によれば、律法は「民族の共通認識を確かなものとして受け入れるように導き」、預言者は「硬直化した王のあり方を民衆の立場に立って打ち砕き」、知恵は「人がいかに生きるべきかを識別」(p.231)します。
ブルッゲマン自身は、律法は「確信を与えるエートス」であり「共通認識を大切にし」、預言者は「思わぬ方向へと導くパトス」で「新しい真実で共通認識を打ち壊し」、知恵は「指示を与えるロゴス」で「経験と伝統との緊張関係において新しい経験に価値を与える」(p.142)と述べています。
あるいは、律法は「驚きを与える子供時代の物語」、預言者は「青年期の神託めいた反発」、知恵文学は「年を経る過程で得る知恵の力という成熟のプロセス」(p.14)であり、これも、子どもの教育や生涯にわたる人間の学習にも重なるのです。
さて、ブルッゲマンにおいては、教育は「私たちの文化の支配的なイデオロギー、言い換えれば、軍隊的消費主義、対話を断固拒絶する社会」(p.15)への対抗プランでもあると思われます。
律法では、抑圧の帝国エジプトからの脱出などが述べられていますが、これは軍事国家からの解放の経験です。このような歴史的記憶はその後の時代において別の帝国に支配される時もそれへのアンチテーゼとして機能します。
預言者は「詩人」であり、王の抑圧「世界を攻撃する言語活動を行い、王の制度の偽装を日の下にさらし、今まで考えたこともなかった社会の可能性の新たな様相を享受するよう、聞く耳を持つイスラエルを招く話し手であり・・・新しい景色を描き、新しい隠喩を形成し、修辞学の大胆なリスクを冒すというこの能力でもって、彼らはイスラエルの想像力のために、そしてひいてはイスラエルの政治的な行動のために、新しい戦いの場を創造」(p.89)するのです。
知恵文学は、人間の知りうることとこれの及ばない神の領域の間で弁証法的である、とブルッゲマンは言います。すると、ブルッゲマンは直接はそう言っていませんが、知恵文学は、かつて神は民を抑圧から解放してくれたという記憶=律法と、現在の抑圧からも神はかならず解放してくれるという希望の間の弁証法とも言えるのではないでしょうか。
神の過去の解放行為は人間が感謝をもって知りうること、記憶ですが、これからの解放行為については希望は抱いても人間の知り尽くせることではありません。知恵文学は解放の記憶と解放の希望の弁証法と言っても大きな間違いではないでしょう。