遠藤周作の友、若松英輔の師である井上洋治神父の代表的著作です。
「主体―客体の関係を超えた(あるいは根拠づけているといった方がもっと適切かもしれませんが)流動するいのちの世界」(p.17)
キリスト教徒の大半は神を「自分の外にある神、客体、対象となりうる神」と考え、ぎゃくに「万物に内在し万物を包み込む神という点がおろそかにされていた」(p.21)と著者は言います。
「包む」という言葉も本書には頻出します。
「意識の根源に広がっていて主―客を包んでいる根源的ないのちの場」(p.26)
イエスのアッバ(父よ)という言葉もこれを表していて、それは、「対象についての区切りのレッテルのような言葉ではなく、そうとしか言い表し得ないような深い生の体験の表現」(p.90)であると著者は言います。
「イエスのアッバという言葉には、神は対象化できない、私たちがその外に立つことのできなかただけれども、祈りを捧げることのできるかたであり、父のような深い愛を持って包んでいてくださるのだという、子としてのイエスの強い体験と確信が溢れているのです」(p.91)。ここでも「包む」と言われています。
「怒りと罰と裁きのユダヤ教の神に対して、イエスの示す神は、あのユーカリの樹々が静かに影を落とし、小鳥が腹を見せながら赤いアネモネや黄色の野菊が咲き乱れる緑の湖畔の丘から湖面へと流れるように飛び交っている、青磁色をたたえたガリラヤ湖にふさわしく、愛とやさしさをもってすべてを暖かく親のように包んでくださる神なのでした」(p.94)
「主体―客体の関係を超えた」と言うと難しく聞こえますが、「暖かく親のように包む」と言ってもらえればわかりやすいと感じる人もいるでしょう。
「幼児が親の腕にいだかれながら、アッバと父親にむかって呼びかけるとき、そこには自分対父親といったようなはっきりとした主と客の対立はありません。そこには大きな愛に包み込まれた安堵と喜びの体験があるだけです」(p.102)
「イエスが神にむかって呼びかけたアッバという言葉の中には、主―客未分におけるこの深い愛の一致の体験がありました」(p.103)
「そこには人間と対立している神の姿はありません。父親が愛児を抱くように、限りなく広い大きな愛をもって日々の私たちの生命を包んでいる神の姿があります」(同)
「主―客未分」という哲学用語は、イエスを経て、著者によって、「包み込む」という体験の言葉になったのです。
「神の国は、永遠の生命は、私たちがその外に立って眺めることのできるようなものではなく、私たち自身が決してその外に立つことのできない、私たちをも生きとし生けるものをも、すべて包みこんで流れゆく根源の大生命の流れともいえましょう」(p.118)
ここに、柳宗悦、遠藤周作、井上洋治、若松英輔を「包み込む」ものが現われていると言えるのではないでしょうか。
復活したキリストも、主客の客として対象化できません。
「復活したキリストは、それ自体は本来、歴史的なナザレのイエスのように目に見える対象化しうるものではなくて、普通の肉眼には見えず、また対象化することもできないのです。復活のキリストは体験する以外にとらええない原事実です」(p.171)
たしかに、史的イエス、歴史学者が描くイエスは対象化しうるものでしょうが、復活以前のイエスと出会った人びとも、イエスを対象化したのではなく、むしろ、神の国を告げ、病人を癒し、弱者を排斥しない、つまり、対象化せず、包み込むイエスとの主客無しの出会いがあったのではないでしょうか。
イエスによって、ともに命の根源の場に包み込まれる経験をしたのではないでしょうか。