精神科医であり精神医学者であり名文家、翻訳家、博覧強記の中井久夫さんが去年亡くなった。この人の著書は医者でない者たち（読者の大半は医者ではなかろう）を慰めた。
本書には多数の者が寄稿しているが、以下、引用文には執筆者名は記さない。
中井さんは晩年カトリックの洗礼を受けた。これについて、ある人は、「この傑出したプロフェッショナルは、最後に神に救いを求めたのか。神にしか救えないものがあると感じたのか」と記している。
そうではないだろう。中井さんの患者さんとの関係は、救いを与える、正解を与えるというものではない、ということは、本著でもたびたび指摘されている。患者さんの気配を感じ、それと呼吸をともにするのだ。神と中井さんの関係も、じつは、中井さんと患者さんのような関係だったのではなかろうか。
中井さんの特徴のひとつは精神病の発症過程よりも寛解過程に注目することにある。「寛解過程を中心にすえて理解した統合失調症からは、私たちは、ポジティヴな社会秩序のヴィジョンを導くことができるのではないか。「統合失調症」は、もっぱら否定や破壊へと向かうポテンシャルを含意しているのではない。統合失調症には、構築へと向かうポテンシャルがある」
「医学は科学ではないと中井は判断する。その判断のなかで大きな位置を占めるのは、医学が向かい合っているのが「対象」ではなく「相手」であるという考えである。「相手」とは中井によれば徹底的に対象化できず、対象化しようとすれば裏切られる複雑な系であり、医療者が技術と戦術と戦略、そして倫理を持って迎える相手である。」
中井さんがカトリックに帰依したのも、神は自分を「対象」ではなく「相手」としてくれるからであり、中井さんも神を対象ではなく相手としたのではなかろうか。中井さんは神を対象としてそこから救いを引き出そうとしたのではなく、一心同体の相手として、信頼しようとしたのではなかろうか。
「患者の語る妄想の内容がどれだけ了解不能に思えたとしても「妄想を持つ人間の苦悩」それ自体は了解可能であるという精神療法的な態度」。
「中井は、「あなたは依存症だ」と直面化せずに、「きみには酒は合わない」という程度にとどめる」
「ただ、このひとは自分の井戸に自ら釣瓶をおろして、汲み上げつつあることばを今声にしているのだなと感じたことは何度かある」
これらも、中井さんと患者さん、神と中井さんにあてはまるのではなかろうか。
「精神分析とは時に言葉の格闘技を思わせるような、徹底的な言語化、意識化を伴う。言葉を用いて心を考古学的に掘り出し、無意識の層にも光を照らそうとするこの実践には、啓示としての真理こそが人を解放するというユダヤ・キリスト教的ヴィジョンがある。ところが彼ら（土居、神田橋、中井）が指摘したのは、そのような言葉によって到達できる「真理」の儚さである。よって土居は「秘密」の重要性について語り、神田橋は「自閉のすすめ」を説き、中井も「隠された葛藤」や「真の欲望」に惹かれ「秘密の言い当て」によって相手を追い詰めていくことを厳しく戒めた」
中井さんは上で言われているようなユダヤ・キリスト教的ヴィジョンよりも、緻密な律法システムを解体しておおらかな天の「父ちゃん」を示したイエスのヴィジョンに惹かれたのではなかろうか。
中井さんは絵を描いたらしいが、イエスもそうしたらしい。
ヨハネによる福音書8:4「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
