838 「偏見に気づき、区別に貴賤を持ち込まない」 ・・・ 「他者を感じる社会学 差別から考える」(好井裕明、ちくまプリマ―新書、2020年)

わたしたちは、どういうふうにして、差別発言、差別行動を起こすのでしょうか。

どういうふうにして、人を見下す思考や感情が生じるのでしょうか。

5歳の子どもの入学を小学校が認めないのは、差別ではなく区別である、と一般には考えられるでしょう。しかし、7歳になろうとしている子どもを、たとえば、国籍ゆえに入学を認めない、ということが万一あれば、これは差別です。

区別と差別の相違はどこにあるのでしょうか。区別が差別に変わることがあるのでしょうか。あるとすれば、そこにはどんな原因や理由があるのでしょうか。

 

こういうことを考えている道のりで、この本も手にしてみました。

 

「日本人はさまざまな形で在日から被害を受けているという根拠のない思い込みがあるようです」(p.13)

在日は「特権」を得ている、自分たちにはそれがない、だから、自分たちは被害者だ・・・こういう思いのようです。むろん、在日は「特権」など受けてなく、ぎゃくに、諸権利をはく奪されています。

 

「相手は「人間」ではないのだから、殺してもいいという“殺しの思想”はまさに差別主義的なものの見方に支えられていました」(p.16)

黒人を容易に射殺する白人警官には、相手は自分と同じ「人間」ではない、という考えが沁み込んでいるのではないでしょうか。

「差別とは、他者を「遠ざけ」「貶める」営みです」「それは、自分の利益、より正確に言えば、自分が利益だと考えていることのために、他者がもつ現実の「ちがい」や勝手につくりあげた想像上の「ちがい」に否定的な意味をこめ、その「ちがい」をもとにして、当該の他者やある人々を排除し、攻撃する行為です」(p.18)

ここで、差別は自分とその周辺の利益のための、異なる他者の「排除」「攻撃」の行為である、と明言されています。その根拠として現実や想像上の「ちがい」が持ち出され、その「ちがい」に否定的な意味が込められる、と言うのです。

たとえば、自分(たち)と皮膚の色が「ちがう」人びとを劣っているとみなしたり、「人種が違う」などの想像上の「ちがい」がある人びとを蔑視したりし、「排除」「攻撃」することが差別だというのです。

「区別」に否定的な意味を持たせると「差別」になるのかもしれません。

「差別は、私たちが他者を認識し理解しようとする過程で起こる現象です。さらに言えば、私は、他者認識や理解をめぐる「偏り」「歪み」「硬さ」から差別が生じると考えています」(p.44)

わたしたちは、他者を認識するとき、たとえば、初めてあった人と話す前に、「中年の日本人男性、サラリーマン風」などと、その人の像をぼんやりとつかむのではないでしょうか。

 

ここには、年齢、年代、国籍、民族、人種、性、職業などのカテゴリー分けが働いています。その際に、〇〇国籍、〇〇人、○○の性の人、○○の仕事の人については、「劣っている」などという偏見を持っています。そこから、その人への接し方の中に、差別、排除、攻撃が生じるというのです。

「差別とは、さまざまな「違い」をもつ他者を、なんらかの理屈をたてて貶め、自分の生きている世界から遠ざける営みですが、そうした営みをいわば根底から支える人間に対する見方があります」「一つが「貴い―賤しい」という見方です」(p.84)

国籍、性、職業などは「違い」なのに、ある国籍の人はどうのこうの、ある性の人はどうのこうの、ある職業の人はどうのこうのと屁理屈を並べて、賤しいとして、遠ざけることが差別だというのです。

 

ここには、「世のなかには、尊い人と賤しい人が存在する」という根深い見方があります。天皇・貴族・エリート・金持ちが「尊い」とされるなら、その反対に「賤しい」とされる人びとがいなければならないことになります。そして、ある違いを持つ人びとが「賤しい」とされるのです。

新型コロナ感染などは、差別や「貴い―賤しい」と無縁のように思われますが、そうではありません。

 

「目に見えない厄介な「何か」が私たちの日常を覆い、適切な対処法もわからず、先の見えない不安が充満しているとき、世のなかで必ず起こることがあります。それは差別です」(p.223)

 

「こうした状況で問題となっているのが、感染者や感染者に関連する人々に対する非難や誹謗中傷であり差別です」(p.253)

 

「差別行為の背後に息づいているのは、ウィルスに対する恐怖であり、感染への不安です」(同)

「恐怖」や「不安」は、○○人への差別や性に関わる差別においても同様でしょう。ウィルス感染のように病気になるわけではありませんが、自分の理解ができないところに引きずり込まれるのではないかという不安、自分が同類だと思われて自分も差別されることになる恐怖があるのではないでしょうか。

「一連の差別行為に共通していること。それは、“見えない”恐怖の源が「見えた」と差別者が思い込むことです。この思い込みは錯覚ですが、差別者にとって「見える」存在は、恐怖を解消する格好のターゲットであり、同時に徹底して忌避すべき実際の対象となるのです」(p.254)

人生への不安、世の中に漂う先行きへの不安、最底辺に落下することへの恐怖、その原因を、誰かのせいだと思い込む、いくつかの社会的カテゴリーに属する人びとのせいにする、そして、その人びとを忌避し、排除し、攻撃する、これが差別だというのです。

こうした差別を克服するには、まず、自分がある人びとに対して社会同様の偏見を持っていることに気づき、「ちがい」に「貴い―賤しい」を持ち込まない、それを取り除くことが肝要である、と本書は伝えているのではないでしょうか。

 

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