タイトルから、キリスト教のイロハの案内かと思われるかもしれません。たしかに、「第1章 新約聖書とは何か」「第2章 イエス」「第3章 パウロ」などの章立ては基礎的な事柄に思われますが、「本の素材」「本の形態」「本の製作と流通」を述べる「第8章 新約時代の書物」や、現在残っている書き写しの書き写しのそのまた書き写しのような写本からその「オリジナル(最初に手書きされたもの)=本文」を探求する「新約聖書の本文研究」を案内する「第10章 新約聖書本文の研究と聖書翻訳」などは専門分野的な香りもします。
また、各章にも、わたしが「今まで知らない」で来たようなことも散見されます。
たとえば、「ユダヤ教の理解では、「選ばれた民」とされたことにたいする感謝の行為として律法を遵守していた。救われるために律法を守るのではなかった。よって、律法に対して緩い理解を持つキリスト教を迫害したのは当然である」(p.57)とあります。
キリスト教の世界では、ユダヤ教は律法を守る者は神に救われると教えている、というような考えが支配的でした。けれども、最近の研究の成果では、救われるためではなく、救われていることへの応答としてユダヤ教では律法を守る、と言われるようになってきました。そこまでは、知っていました。けれども、キリスト教会が始まったばかりのころ迫害を受けたのは、神への感謝の念が足りないことを責められたゆえだったとは今まで知りませんでした。
「パウロはおそらく、イエスの地上活動についてはほとんど知らなかったのではなかろうか。パウロの迫害対象はあくまで「イエスをメシアと主張するキリスト教徒」だったからである」(p.74)。
パウロは後に律法ではなく信仰による救いを唱えるのですが、もともとは律法遵守を唱える人でした。しかし、イエスも律法は尊重していたようです。ですから、パウロはイエスそのものを迫害したのではなく、いくら律法を守ろうともイエスがメシアであることは受け入れられず、そのように信じる者を迫害したのだと言うのです。
「洗礼の方法として、体全体を水の中に沈める「浸礼」と、頭にしずくを振りかける「滴礼」がある。後者は新約聖書そのものにそのような記述はないが、使徒教父文書のひとつである「ディダケー」に述べられている」(p.133)。
新約聖書には洗礼者ヨハネがヨルダン川でほどこした洗礼が出てきます。これは、浸礼のように思われます。これを根拠に、浸礼の方が古くからの正しい洗礼である、滴礼はのちの時代の産物である、という主張がなされる場合もあるようです。
ところが、ディダケーは新約聖書には含まれなかったものの新約諸文書と同時代の文書と言ってよいものであり、滴礼もふるくからあったのですね。知りませんでした。そもそも、洗礼者ヨハネが浸礼を授けたとしても、その時は、まだキリスト教は始まっていませんでしたから、ヨハネの洗礼をキリスト教の洗礼と単純に結び付けられるものかどうかという疑問も残ります。
マタイ16:16は口語訳聖書では「あなたこそ生ける神の子キリストです」と訳されていますが、新共同訳聖書では「あなたはメシア、生ける神の子です」とされています。ギリシャ語では(カタカナで書けば)「クリストス」という語が用いられているので口語訳の方が正しいようなものです。
ところが、本書によると、「新共同訳聖書では、イエスがそもそもユダヤ教的な意味で「メシア」と理解されていたことがわかるように、「メシア」と訳された」(p.134)そうです。知りませんでした。
「再臨信仰の原点は「イエスといつまでも一緒にいる」ということであり、その時が早くるよう願い求めることである」(p.143)。
イエスが再臨する、天からこの地上にふたたびやってくるなどと聞くと、超自然現象のような気がしてしまいますが、その源には、あのイエスともう一度一緒にいたい、いつまでもいたい、という祈りがあったと考えられるのですね。