747 「イエスの原像は大河ドラマのごとく」・・・ 「イエスの福音 それは本当は何だったのか」(J. M. ロビンソン、新教出版社、2020年)

 ある人物の像は伝わる過程で、雪だるまのようになっていく場合がある。雪だるまの中心には何があったのか。イエスの人物像の場合、雪だるまと違い、雪以外のもの、つまり、イエスそのものが存在する。

 

 本書では、イエスは、もともとどういうことを訴え、どういう人物であったのかを探る。そこで得られるイエスの原像と、その探求に伴って浮かび上がってくる1世紀のイエスの後継者共同体の推移も、本書ではともに興味深い。

 

 著者によれば、「イエスの福音の焦点は、人々の人生を導く神であり、イエスに耳を傾ける人々をとおして世界を再創造する神にあった」(p.15)。

 

 イエスは「神が再創造する世界」を「神の国」と呼んだ。「イエスは『神の国』という言葉を用いることによって、自らの理想する社会像を提示している。それは、他の政治的・社会的システムや(他の人々を出し抜こうとするような)個人的自己保身とは対立関係にある」(p.16)。

 

 「神の国」は「神の支配」とも訳せるが、上の引用からわかるように、それは、人を抑圧する支配ではない。

 

 「もし私たちが、自己を発展させるために他者を引きずりおろすことを互いに回避するなら、悪循環は断ち切られるだろう。そして、社会は破滅的ではなく、相互に支えあうものとなるだろう。これがイエスの発想に沿った方向である」(p.16)。

 

 これがイエスが考えた「神が再創造する世界」「神の国」であろう。

 

 「イエスのメッセージは単純だった・・・そのメッセージは、『神を信頼したまえ。神は君を助けようとする人たちを備えることによって神を配慮していてくださる。また神が君に、人を助けなさいと呼びかけているのを聞き逃さないようにしたまえ。神は信頼できる方だ、だから神に賭けたまえ』ということである」(p.16)。

 

 神の支配は抑圧ではなく「配慮」なのだ。神の「配慮」それは「愛」でもあろうが、それは、誰かを通してわたしたちに向けられる。また、わたしたちを通して誰かに向けられる。この配慮と愛の神に信頼して生きる、あるいは、賭けて生きる。これを著者は「信仰」と呼ぶのではなかろうか。

 

 著者によれば、イエスの原像は、おおざっぱには、このようなものだ。

 

 では、一世紀におけるイエスの後継者共同体はどのように推移したのだろうか。

 

 「ユダヤ人教会はイエスの直弟子から成り、彼らはすべて、イエスの死後に彼の言葉を再開したユダヤ人だった。その結果、説教を目的として小さな言葉集がまとめられ、その過程で、アラム語からギリシャ語に翻訳された。これらの小資料集には次第に新しい資料が加えられていった。それら全体が、紀元七〇年頃ユダヤ戦争の時期に編纂され、最終的に言葉福音書Qを生み出したのだった」(p.39)。

 

 なるほど。このような推論を聞くと、わくわくする。

 

 「マルコ福音書には異邦人キリスト者である読者のために書かれたことを示す記述が見られるように、言葉福音書Qにはユダヤキリスト者である読者のために書かれたことを示す記述がある。異邦人に関する軽蔑的表現が見出されるのである。これはアラム語を話すユダヤ人の村々で一般的であったにちがいない」(p.40)。

 歴史記述でありながら、いや、そうであるからこそ、じつに創造的だ。

 「ユダヤキリスト教会は最終的には異邦人キリスト教会と合同した。疑いなくその一致のしるしとして、ユダヤ人教会はQとマルコというキリスト教のそれぞれの集団の福音書を融合させて、マタイ福音書を生み出したのである。同様に、異邦人キリスト教会は二つの原初の福音書を融合させてルカ福音書を生み出した」(同)。

 この誤読ノートを読んでくださる方の中にも、こういう記述に胸躍る人がいるのではないか。

 

 ところが、Qは消滅する。文書としては残っていない。ただ、マタイとルカ福音書にその引用と推測できるものがあるだけだ。

 

 しかし、Qは、生き残った。

 

 「こうして時代を経て言葉福音書Qは完全に失われ、その存在そのものが知られなくなったが、間接的にそのメッセージである『イエスの福音』を生かし続けたのは、『山上の説教』にほかならない」(p.59)。

 

 「山上の説教」はイエスのもともとの言葉を色濃く残している。

 

 「パウロの手紙は神学者らの間で最もよく用いられた。しかし、ローマ帝国を改宗させたのは彼らではなく、むしろコンスタンティヌスの軍隊の歩兵たちといった大衆だった。彼らは、恵まれない人々や抑圧された人々を身近に知っていた。そして、そのような人々が炊き出し(聖餐用パンよりも多く提供された)や孤児の引き取り、夫を亡くした女性の保護といった、元来イエスからもたらされた言葉福音書Qや『山上の説教』を通して伝えられた慈悲の精神によって救済されていたことも知っていた」(p.59)。

 

 「その後、山上の説教を再発見したのはアッシジのフランチェスコであったと思われる。彼の指導のもとに成立したフランシスコ会はその後の歴史を通じて言葉福音書Qのイエスのメッセージの大きな担い手となった。そして、レオ・トルストイが「戦争と平和」においてその仕事を引き継ぎ、その後はマハトマ・ガンジーの「平和的抵抗」、そして、マーティン・ルーサー・キング牧師の差別のないアメリカという「夢」をもって続いた」(p.60)。

 

 ぼくたちもQの無名の担い手になりたくはないか。

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