副題の「できるを科学する」とは、どういうことでしょうか。
「できる」という言葉は、「できる=優れている」というような能力主義に結びつきがちですが、そうではなく、本書では「『できるようになる』という出来事そのものがもつ不気味な面白さや想像を超える豊かさ」に目を向けています。「本書の目的は、「能力主義から「できる」を取り戻すこと」だったかもしれません」(p.242)。
では、主題の「体はゆく」とは、どういうことでしょうか。
できないことをできるようにするには、これまでと違う仕方で体を動かさなければなりません。それには意識がこれまでと違う仕方を体に命じなければなりませんが、それまでその仕方をしたことがないのですから、そのような仕方を体に命じることはできません。
しかし、体には「ユルさ」があって、命じられたとおりとは少し違う動きをしうるのです。つまり、体は意識を超えて「ゆく」(p.10)というのです。
「『できなかったことができるようになる』とは、端的に言って、意識が身体に先を越される、という経験です」(同)。
元プロ野球投手の桑田さんのピッチングフォームは、毎回正確に同じかというと、そうではなく、かなりばらつきがあるそうです。それでも、キャッチャーには同じようなボールが届くそうです。
これは、たとえば、腕の振り、ボールを離す高さ、指の使い方、腰の関わり方などが、それぞれ毎回違っても、結果は同じになるように、脳が無意識下で各要素間を調整しているということなのではないでしょうか。
「『できる』ためには、そのつどの環境等の変化に応じてやり方を柔軟に変える「変動の中の再現性」が重要である」(p.109)、「脳は、意識が及ばないほどの精度で、環境に対して体をフィットさせるように調整を続けている」(p.169)と著者は言います。
「意識と体」というように考えるのなら、意識が及ばないような場合の脳は体なのでしょう。
AIを使えば、今の自分よりもうまく踊れている自分の合成映像を作れるそうですが、先生の踊りよりも、これを見て練習した方が、上達するという研究があるそうです。
言語に分節して意識に仕込もうとするよりも、このような方法の方が体が「ゆく」ことを促しやすいのかもしれません。
これも、軍事や産業能率のためではなく、リハビリなどに用いられるとよいですね。