とても読みやすく、おもしろい。つまり、何度読んでも意味をつかめずいらいらさせられる難解なセンテンスは出てこない。ほとんどの表現はすらすらっと読める。内容がわかるから、アメリカのキリスト教の歴史はおもしろいと思える。
アメリカのカトリックやプロテスタント諸教派のヨーロッパとの関係、アメリカでの展開を学ぶことは、日本のキリスト者にも今自分が属する教会や他の様々な現代日本の教会の世界史的背景を知ることになり、それもじつにおもしろいことだ。
本書では、さらに、アメリカにはいろいろな神学校、キリスト教大学の設立や展開、ふたつの大戦やヴェトナム戦争、黒人差別、女性差別、LGBTQ差別、9.11といった社会の諸課題とのキリスト教との関係なども、わかりやすく、しかも、話が上手で聴き手に伝えることに誠実な教員の口調で語られている。読者にていねいに楽しく伝えようという姿勢が本書全体に浸透している。
カーター、レーガン、ブッシュ 親子、オバマ、トランプ、バイデン大統領とキリスト教の関係についての叙述は、まさに、コンテンポラリーで、リアルタイムだ。
日本のキリスト教界では、今、セクシュアルマイノリティを差別するキリスト教徒やある犯罪的宗教的団体が大問題になっているが、これについて考えるヒントも見出される。
「白人福音派は候補者の信仰を重視するよりも、「中絶と同性婚の阻止と親イスラエル」を約束し、その約束を確実に守る候補者を選ぶようになっていた」(p.277)。
この分析を拝借するなら、自民党がその団体とつながったのは、その信仰よりも、反共、反動性と集金力、動員力ゆえのこと、と言えるだろう。
これ以外にも、この本にはおもしろいことが山ほど書かれている。
「ピューリタンはクリスマスを祝うことを禁じた」(p.29)。理由はクリスマスを祝うことは聖書に書かれていないからだ。
ホイットフィールドは「人々の感情に訴えかける才能があった・・・彼が「メソポタミア」と感情を込めて言うだけで、聴衆は感動のあまりぽろぽろと涙を流したという」(p.51)。今度のぼくの説教の冒頭で「エ~ジプト」と情感的に言ってみよう。どうなることだろうか。
「組合派教会が公定協会(established church)とされていた。これはキリスト教が行政を支配するという意味で、チャーチ・ステート(church-state、教会による国家)と呼ぶ」(p.69)。組合派には反権力のイメージがあったので意外。
「リバイバルは信仰心のみならず、奴隷制廃止運動を推進することで白人の良心をも覚醒させた」(p.76)。これも意外。自分の信仰にしか興味がない個人主義のような気がしていた。次の引用にもつながる。
「南北戦争はリバイバルの延長線上にあったと言える。奴隷制廃止論がリバイバルによって高まってきたことはすでに述べた。北部のリバイバリストは、戦争が奴隷制という罪に対する最終的な裁きを下すと断じた。それに対して南部の牧師たちは、奴隷の所有も神の摂理であると主張した」(p.95)。かならずしも悪いことばかりではないが、聖書はつねに集団の思考の正当化に用いられてきた。
「日本では「ルター派教会」ではなく「ルーテル教会」と呼ばれる。これは明治時代にLutherが漢字で「路帖」と書き表され、「るうてる」と読まれたからである」(p.118)。ルーテル教会に35年在籍したが、知らなかった。
救世軍の「軍隊式組織には意味がある。制服や階級を設けることで、この活動に参加する信徒(兵士)は富める者も貧しい者も同じ制服を着て、社会階級を越えて効率良く活動できるのである」(p.169)。「軍」とか「軍服」とか非民主的な印象があったが、じつは、この世の階級に抗う意味があったのか。
「ユニオン神学校は1836年にニューヨークの長老派により設立された」(p.181)ことにも驚いたが、「ユニオン神学校の教員は、ユニオンを長老派から独立させ」(p.182)ることになったのだ。
「信徒たちはモダニストの牧師が語る難解なメッセージを理解できず、礼拝に出席しても何も得られないというフラストレーションを感じていた・・・ホーリネス、ペンテコステ、ファンダメンタリズムの運動に参加したのはどのような人たちだったのだろうか。彼らは主流教派の教会で語られるモダニストの牧師の難しい説教について行けず、教会の社会活動に参加することに気後れしていた人々であった。彼らは信仰を燃え上がらせてくれるような霊的な風潮が自分たちの教会に欠けていると感じていた」(p.185)。
「史的・批判的聖書学や自由主義神学を土台にした日曜日の教会での説教は、人々がそれまで信じてきたことをゆるがしこそすれ、不安を和らげるような慰めにはならなかったのである」(p.194)。
この指摘には共感する。著者の牧会的資質は文体にも潜んでいるが、ここにも見られる。現代の日本の教会でも、聖書学者、神学者、哲学者を引用したり、社会正義を訴えたりすることで、(そのこと自体が悪いというよりも)自己満足だけで、聞き手である会衆を置き去りにする説教をする牧師には、ぼくは賛同できない。ファンダメンタリストや福音派を馬鹿にしてはならない。ただし、その人びとが、聖書解釈や教会論において独善的になったり、多様なマイノリティを差別したりするなら、それは批判しなければならない。
「米国長老派(PC[USA])の大会は、1993年に同性愛者を公言している者の牧師按手を明確に禁じる大会決議を行った・・・2011年、米国長老派は牧師按手を「独身で貞潔な人、または異性と結婚した人」に限定する教規の文言の削除を決定した。2014年の大会では、同性間の結婚の司式を行うことが可能となった。そして2016年の大会では、ゲイ・レズビアンの長老派信徒にこれまでの差別的な行為を謝罪する決議を行った」(p.266)。
日本基督教団権力者のセクシュアルマイノリティに対するここ30年の態度の変遷も、ある程度これに連動しているのだろうか。
「ショッピングモールが近隣の小売店を潰してしまうのと同様に、メガチャーチも近隣の小さな教会やキリスト教団体に打撃を与える」(p.272)。これも気づいていなかった視点だ。教会は大きくなればよいというものではない。
「ピールやシュラーの著作は自己啓発本の類である」(p.273)。日本でも自己啓発セミナーのような「キリスト教講座」がインターネットなどで運営されているようだ。高校生が高校での授業以外に、市販の参考書類だけでなく、予備校の授業に頼るようになり、そちらが主になってしまうことがある。高校や教会が提供しているものの本質性を再確認すべきではないか。
この本には、歴史の中で虐げられている人々を見逃さない正義と共感の筆致が感じられる。しかし、リベラルにありがちな知性第一主義のキリスト教観に陥っていない。素朴な信仰者を侮蔑していない。優しい一冊だ。