「世界史」をふりかえると、人間の口に入る「食べもの」は、支配者の都合によるものだったことをこの本は教えてくれます。
小麦、大麦、コメ、トウモロコシが主食とされたのは、長期間保存、貯蔵、輸送ができたので、支配者の富の蓄積に好都合でした。地中にあるイモとは違い、地上で実るこれらの穀物は、隠されず、徴税に便利で、そのための計量も楽でした。つまり、これらは「政治的作物」だったのです。
近代になって、産業革命が起こってからも、「食べもの」は支配者の手にありました。イギリスの労働者は、北米からの小麦、カリブからの砂糖、インドからの紅茶など、つまり小麦のパンと砂糖入り紅茶で、一日の厳しい労働の燃料として朝のカロリーをとらされることになったのです。
戦後の日本で言えば、アメリカの小麦やトウモロコシを消費するような食生活を仕立てられました。アメリカは売り、日本の食料企業は買い、その道筋を政治家が整えます。ハンバーガーをいつのまにか食べたいようにさせられ、自分の好きなものを食べているかのように、じつは、消費させられているのです。
こうした中で、農は農産業となり、いのちを養うはずの食べものが、儲けるための工場生産物となり、生態系は浸食されています。たほう、温暖化に伴う異常気象で動植物の生が失われています。人間の貧富の格差は拡大し、少数の富める者の贅沢な生活スタイルによって、地球環境は危機的となり、その犠牲者は貧しい者たちです。
A「長い間人類は、自分たちが食べるモノ、必要なモノは、基本、自然から分けてもらい、自分たちで作り、そのための知識やスキルや自然環境を、社会の共有財産として護り育ててきた。自分たちの生活基盤であるからこそ、自然環境もみんなで管理し維持していた」(p.157)。
B「それが、産業革命以降、大きく変わってしまいました。人びとは生活から離れた場所に、賃金を得るために働きに行くようになり、資本家はそんな労働者を雇って、売って儲けるための「商品」を大量に生産するようになりました。そして、人間が生きていくための食べものも、市場経済に組み込まれたお金を儲けるための「商品」に変わっていきました」(同)。
その結果の、貧富の超格差、そして、地球と生命の危機です。
では、どうしたらよいのでしょうか。
Aに戻ることはできません。しかし、参照することはできるでしょう。
「自分の身体と頭脳をつくる食べものを選び取ること、自分で食事を用意できるスキルをもつことは、自己防衛のためにも環境負荷を減らすためにも必要になってきます。そうすれば、人も自然も壊さない食と農を考え始められるでしょう」(p.164)。
そんなことができるでしょうか。けれども、たとえば、こんなことならできるかもしれません。
「地域でがんばっている小さな農家(=小農、家族農業)や有機農業、地域が支える農業、地域の生態系と社会の中で食べものを育てるアグロエコロジーなどなど、社会を変えようと始められている活動につながることができると思います。探せば、いろんな取り組みはすでに始まっているのです」(同)。