本書は五部構成で五人の著者がいます。広告を目にしたとき、「え! この先生がこの手の本の執筆陣にいるとは、意外!」と勝手に思い、ぎゃくに、この先生ならではのユニークな内容に違いない!と確信し、読むことにしました。みごとに裏切られませんでした(^^)
「洗礼を受けても生活は変わらないかもしれませんが、人生は変わると思います」(p.119)。
洗礼を受けても苦しみがなくなるわけではありません。しかし、それの受け止め方や向き合い方は変わるでしょう。また、苦しみの定義も変わることでしょう。ちなみに、このセンテンスを英訳するさいには、「生活」と「人生」にそれぞれ違う語をあてる方がよいかもしれませんね。
「クリスチャンの人生は、他の人のために存在して、初めてクリスチャンの人生になるのではないでしょうか」(p.122)。
ぼくは60年前に洗礼を受けましたが、他の人のためではなく、ひたすら、自分のために生きてきました。自分と家族のことしか考えてきませんでした。他の人のことは考えていませんでした。やりなおせるなら今からやりなおしたいです。
こう言うと、他の人のために生きないと神から救われないと言っているように誤解されるかもしれませんが、そうではありません。著者は、神を功績主義者に仕立ててはいません。
「みんなは、わたしのことを極めて良い存在だとは言わないし、わたし自身もそうは思わないけど、神さまがそう言われるのなら、アーメン」(p.138)。
Jesus loves me, this I know, FOR THE BIBLE TELLS ME SO♪ これは悪質なファンだメンタリズムとは無縁で、むしろ、バルトの最良質の後継者だと思います。
「わたしたちがこの世のことについて関心を持ち、この世を正しい道へ変革しようと努力することは、神からわたしたちに与えられた責任なのです」(p.144)。
ここを「神からわたしたちに与えられた義務」とせずに「責任」としているところがすごいと思います。責任=response=応答。応答さえも神からの賜物なのです。
「神に与えられているものを数えて、それに感謝しましょう」(p.124)。
「この世・この世界に山積みするさまざまな問題について、わたしたちは神に対する責任があると考えるべきです」(p.142)。
ゼロ歳児のぼくは、洗礼とともにこの責任をもいただいていたのでした。うかうかと60年を過ごしてしまいましたが、この賜物をこれからは少しでも味わおうと、著者に鼓舞されています。