「第一部 旧約聖書の思想」は、コヘレトについての興味深い考察を中心に、詠み応えがありました。
けれども、「第二部 旧約聖書と教会」は、はじめに「洗礼を受けていない人との聖餐式はいけない」という結論があって、それを旧約聖書から「根拠づける」スタイルにしたので、議論に無理がありました。
たとえば、フォン・ラートが「歴史的小信仰告白」と名づけた申命記26章の数節と、キリスト教会の信仰告白を、無批判に重ねていること。イスラエル民族形成の時代と教会のそれとは千年以上の隔たりがあるし、イスラエル民族とキリスト教会を同一線上に置くことにも無理があります。キリスト教会から振り返ればそのように意味付けすることもできるかもしれませんが、イスラエル民族がのちにキリスト教会になったわけではありません。
また、ブーバーの「我と汝」を一人称と二人称の問題であると矮小化し、旧約には三人称もあるとした点にも疑問を感じました。ブーバーは人称よりも、人を「それ」つまり人格ではなく物として対象化することの問題性を言っているのではないでしょうか。
あるいは、旧約においては、法は愛にまさるとし、正義、恵みの含みもあるミシュパトを法に限定した点にも首をかしげます。
こうした疑問がもたれるのは、結論が先にあって、それを旧約で正当化しようとするからでしょう。
「実に、キリストの十字架は法をまっとうする仕方で愛が示された出来事である」(p.148)。
いや、イエスは人々を拘束した社会の縄に囚われなかったゆえに死刑にされたのではなかったでしょうか。イエスを十字架で処刑したことには愛などはありません。しかし、そのように法によって殺されていく小さな人の中に、神の大きないのちを見、「神の子」と呼んだ人がいたことに、愛があるのではないでしょうか。
「聖書学は、信仰を白紙にして「何が信じるに値するか」という問いから出発するのではなく、むしろ、「今信じていることをどのように跡づけることができるか」という問いから出発すべきではないのだろうか」(p.159)。
いや、聖書学は、この書は、どのように成立し、どのような構成を持ち、何を伝えようとしているのかを探求するのであって、それが「今信じていること」によって妨げられてはならないでしょう。「今信じていることだけしか、信じるに値することをテキストは語っていないのか。まだ見出されていないことで、信じるに値することがあるのではないか」という問いなら歓迎されるでしょう。
「引き裂かれた動物の間を通ることによって契約が結ばれるのである。つまり、アブラハム契約では契約締結は引き裂くことと関係する。これは、契約を結ぶ双方が、もし契約を破るなら自らがそのように引き裂かれてもよい、という覚悟を表明しているのである」(p.162)。
「戒規の執行というと、瞬間的に「愛」が欠如しているという拒絶反応が生じる。けれども、われわれは契約共同体的に思考することを選び取る。「法」が機能しないところに「愛」は成り立たないのである。戒規問題において、教会が教会であるために、「愛」こそが必要という結論を出すとすれば、「法」はどこに成り立つだろうか」(p.149)。
このふたつの記述は、洗礼を受けていない人と聖餐式をともにする牧師は「法」「契約」を破っているのだから「引き裂かれてもよい」と言っているようにも読めます。
とはいえ、本書には以下のような魅力的な記述もありました。
「旧約聖書において興味深いのは、この神による摂理が機械仕掛けのように実現するとは表現されない」(p.11)。「「摂理」はいわゆる宿命とは区別されなければならない」「摂理とは、その字義通り「神は先を見ている」ということを人が信じて前に進むことでしかない」(p.28)。
その通りだと思います。神はわたしたちの運命を決めているのではありません。神はわたしたちの見えない先を見ていてくださるのです。希望を見ていてくださるのです。それを信じて進むことがわたしたちの希望です。
「要するに、コヘレトにとって「時」はあくまで神の秘儀なのであって、それを人間は見極められず、その神の秘儀の前で人間は畏れののくしかないとコヘレトは見ているのである」(p.34)。「将来のことは何も決定していないのだから、自分で知恵と力を尽くして、とことんまで努力せよ、ということである」(p.38)。
「空の空、すべては空」という言葉に引きずられて、コヘレトの言葉は虚無主義の書とも思われがちのところ、小友さんは、時が神の秘儀であるということは、言い換えれば、将来のことは未決定ということにもなるから、一所懸命に生きよ、というコヘレトの新しい読み方を提起しています。