「探していた言葉」とはどのような言葉だろうか。
「人生の始まりを告げる言葉は、生の根源へと導くものでもあるから、ここでは、根源語と呼ぶことにする」(p.8)。
「探していた言葉」は「根源語」であろう。
ここでいう人生とは、「生活は水平的な方向のなかで広がりを求めて営まれるのに対して、人生は一点を掘り下げるようにして深まっていく」(p.7)ものである。
若松さんの根源語は「かなしみ」だという。ぼくの根源語は「無条件」と「ともにいる」だろう。神は、ぼくを無条件で愛し、ともにいてくれる。
「「おもい」という漢字は、優に十種を超える。思い、想い、恋い、惟い、念い、すべて「おもい」と読む」(p.39)。
「もしも書くことが、思ったことを言葉にするだけなら、こうしたことは起こらない。そこには思いをはるかに超えた「おもい」のちからが渦巻いている」(p.39)。
新約聖書のヨハネによる福音書1章1節にこうある。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。
この「言(ことば)」と訳されたもともとのギリシャ語はロゴスという単語で、「言葉、理性、世界の根本原理」というような意味だそうだが、カトリック神父の阿部仲麻呂さんはこれを「神さまのおもい」と訳している。
若松さんが言う「おもい」もロゴスにつながるのではないか。「探していた言葉」「根源語」はロゴス、神のおもいではないか。
「心の奥にあって、言葉にならなかったもの」(p.40)、「言葉の奥の言葉を超えたおもい」(p.45)、「出来事のなかの意味」「見えるものの奥の見えない実在」「過ぎ去るものに見い出そうとする永遠なるもの」(p.84)、「年を重ね心に積み上げていく語りえないもの」(p.109)、「その人たらしめている存在の「はたらき」」(p.126)、「死の後も存在し続けると感じているもの」(p.129)。
「探していた言葉」は、このようにいくつかに言い換えられる。なんとかして伝わるように。
ぼくは、つまるところ、これは神だと思う。ロゴスだと思う。
けれども、神は、神という語で言い尽くせるものではない。宗教の言葉で言い尽くせるものでもない。詩も、哲学も、音楽も、絵画も、世界の根源にある言葉を探し続けている。