神戸新聞、「噂の眞相」、「週刊文春」記者を経て講談社ノンフィクション賞受賞のジャーナリスト西岡研介さんが、この本には教えられる、と絶賛する一冊。だから買って読んだ。
「最初の一文、長くても三行くらいでしょうか、そこで心を撃たないと、浮気な読者は逃げていきます」(p.16)。これは、たとえば、キリスト教の牧師さんの礼拝説教にも当てはまるでしょう。
文章には「誤読の種を孕むこと」(p.39)。断定しない。言い切らない。幅をもたせる。読者/(説教の)聴き手が考える余裕を残しておく。
「人名や数字を詰め込めば、それは間違いなく摩擦係数を高めることになります」(p.42)。「『など』は、撲滅しましょう」(p.43)。354年生まれのアウグスティヌスには「神の国」などの著作があり・・・こういう文章は滑らかではありません。
「結論は書き始める前には自分にも分かっていない。そこが、文章を書くことの急所だ」(p.90)。説教の原稿を書くときも結論をどうしようか悩むが、書いていると結論が浮かび上がってくることを信じたい。
「〈論〉ではなくて、〈エピソード〉に語らせる」(p.94)。新約聖書の福音書もそうだ。そこには、イエスの論ではなく、たとえ話や行動が記されている。しかし、それを語る牧師は、具体例を探すのにつねに苦労する。
「世界を変えるのは、問いだ。問いを作れる人が、ライターだ」(p.113)。聖書学者の荒井献さんは「イエスは読者に問いかけてくる」と言っています。イエスから問いかけられ、読者が答えようとし、さらに問いかけようとし、さらに答えようとする。この対話こそが、聖書を、いや、書を読む意味ではないだろうか。
そして、文章を書く秘訣は、誰かに問いかけつつ書くことではなかろうか。