たとえば五十代、六十代の中には、自分の老いを感じ始め、それにどう向かい合っていくか考え始める、と同時に、たとえば七十代以上の親などのこともいつも頭にある、という人もいるのではないでしょうか。そういう方には読みごたえのある一冊だと思います。
聖書の信仰の三本柱はインマヌエル、アガペー、そして、シャロームである、とぼくは考えてきましたが、この本を読み始めてすぐに、著者のキリスト教信仰に深い信頼感を寄せました。序章では、書名の後半分の言葉であり前半分の言葉を支える「祝福」とは何かが述べられています。
「逆境の只中にあっても、神が確かに私たちを見守り続け、ついには私たちの叫びに答えてくださるとしたら、これに勝る祝福はないだろうと私は思うのです」(p.15)。
「祝福は神が私たちとともにあり、私たちの運命を御心にとめてくださることの中にあります。あるときには物質的な繁栄や長寿といった見える形として与えられ、別のときには困難の中での希望という見えない形で与えられます」(同)。
「『神ともにいます』という約束こそ私たちに与えられた祝福なのです」(p.16)。
「福音書の全体が伝えるとおり、主ご自身が不屈の救いの意志をもって苦しむ者と共にいてくださること、その事実こそが私たちに与えられた何よりの祝福です」(p.20)。
ほんとうにその通りだと思います。インマヌエル、「神ともにいます」こそが、神さまの祝福であり、恵みであり、愛であり、恩寵であり、救いである、とぼくも信じます。
著者の信仰が信頼に値するとぼくが思ったのは、これら「祝福」の理解からだけでなく、「認知症と信仰」の項目からもです。
「信仰の根拠は私たちの努力や行動にあるのではなく、罪の中に深く沈んでいる私たちを何としても救おうとする神の意志と、その現れであるキリストの十字架にあるのです。私たちの賛美や礼拝、学びや奉仕はそうした恵みに対する応答であって、信仰の源や原因ではありません。認知症は私たちの応答の能力を損なうことはできても、神さまの救いの意志を髪の毛一本ほども損なうことはできないでしょう。それどころか認知症に悩む私たちに対して、神さまの憐れみはいよいよ強く働くに違いありません」(p.56)。
聖書に現れている神さまの愛はアガペーと呼ばれ、これは、愛する相手に条件も見返りも求めない無償の愛のことです。認知症になれば神さまを信じることができないかもしれない、そうなれば神さまから愛されない、救われないかもしれない、という不安がよぎりますが、神さまのアガペーの愛は、たとえ私たちが認知症で神さまの愛に応答できないように思えるときでも、わたしたちに注がれ続けるのです。
ところで、わたしたちは高齢者に「人扱いされていない」(p.62)という寂しさをもたらすことがありますが、著者はそれを防ぐ三つのことを挙げています。
「一、相手の名前を呼んで話しかけること 二、相手の眼を見て話すこと 三、親しい間柄では、握手したり手を握って話したりすること」(同)。
では、書名の前半の「老い」については、著者はどのように言っているのでしょうか。
「総合的な判断、人の心への理解と共感、道徳、創造性などをつかさどるもので、こちらは結晶性知能と呼びます。そして結晶性知能は、特に病気などをしない限り、最晩年まで成長の可能性があることがわかってきました」(p.74)。
「老い」は衰退とは限らず、成長の側面もあると言うのです。
「私たちの計算力は早くから下り坂をたどり、私たちの記憶力は時とともに頼りなくなっていきます。これに対して、生活者としての私たちは年を追って思慮深くなり、信仰者としての私たちは歳とともに砕かれて謙虚になっていくことができる」(p.75)。
「砕かれて謙虚になる」、わたしたちの傲慢が癒され心が平安になっていく、これを、神さまから平安=シャロームが与えられると信じることもできるでしょう。
著者は、老年期は神さまへの想いが深められていくという考えを紹介しています。これを「老年期超越」と呼びます。超越とは自分の枠を超えて自分より大きなものに心が開かれていくことであり、神さまのことを超越者と呼びます。
「宇宙という大きな生命体とのつながりや、過去および未来の世代とのつながりを強く感じるにつれ、死と生との区別が曖昧になり死の恐怖が薄れていく・・・自己中心的傾向が弱まり、自分の主張や身体的な健康に対するこだわりが低下するとともに、他者を重んじる利他性が高まる・・・過去に持っていた地位や役割に対するこだわりがなくなり、狭くても対人関係を結ぶようになる・・・」(p.81)。
ようするに、神さまと隣人への愛が高まっていく可能性が老年期にはあると言うのです。
著者の聖書の読み方にも興味深いものがあります。たとえば、「若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17、ヨエル3:2も参考に)について、「白昼の清明な意識の中で幻を見る若者に対して、老人は眠りの中で夢を通して深層に降りていくというのです」(p.135)と著者はコメントしています。高齢者は、人生の深層、世界の深層、神さまの深層へと降りていく、つまり、神さまの愛の深い底まで降りていくと言うのです。
高齢者の役割について、著者はある牧師の言葉を引用しています。「第一に、それぞれが人生の中で与えられた恵みと祝福について語り伝えること 第二に、祈ること とりわけ若い人びとのために祈ること」
著者は、この第一の作業は、「福音書記者たちの働きと基本的に同質のものであり、キリスト教信仰の根本をなす大切な働きなのです」(p.174)と述べています。
さいごに、著者は「目に見えないもの」のことを書いています。小さな子どもは母親がトイレに入って目に見えなくなると不安になるが、子どもの心の中にだんだんと「母親のイメージが形づくられ・・・「目に見えなくても、ドアの向こうにお母さんはいる」と感じることができる」(p.196)ようになっていくと言います。そして、大人になっても、「私たちの内に取り込まれた懐かしい人びとのイメージ、「目に見えず手で触れることはできなくとも、慕わしい相手は確かに存在している」」(p.197)という感覚をわたしたちは持つと。
この目に見えない相手とは、さらに言えば、先に天に帰った家族、友人を含む隣人たちのことであり、つまるところ、目に見えない神さまのことでありましょう。老年期は、目に見えない神さまの存在がますます確かになって来るのではないでしょうか。