イエズス会の神父さまがロヨラの「霊操」の手法を取り入れてお書きになった黙想の手引きの本ということで、読んでみようと思いました。
黙想においては、「神から徹底的に愛されている実感」「神からの呼びかけ」「何かから解き放たれた実感」「こころの中に感じる深くて強い望み」「苦しみや危機としっかり向き合い、こころを開いてイエスにそれを見せる」(p.94-96)ことなどに導かれていくことが期待されます。
けれども、そういう黙想が苦手なぼくも、本書のいくつかの言葉に惹かれました。
「目に見えない神を目に見えるようにイメージするには、大自然の姿が手がかりになります・・・さりげなく野に生きる草花や土や石を丹念に眺めてみます。その一つひとつの中に神の愛と摂理を感じましょう」(p.16)。
ぼくは「丹念に眺める」というよりは、美しいと思ったものにはスマホのレンズを向けるのですが、それも黙想の入口かも知れません。
「与える愛を超える愛があることを神は私たちに教えてくださいました。それは、委ねる愛です」(p.30)。
隣人を愛し神を愛するように促されているように、隣人に委ね神に委ねることへと、神はわたしたちを導こうとしているのです。
「結論から言えば、答えは出ないのです・・・・・苦しみは人の知恵をはるかに超える『神秘』の領域に属します」(p.51)。
なるほど。苦しみは、その理由も、その解決法もわからないのですが、わからないゆえに、苦しみは神秘・・・神の秘儀・・・に数えられるのです。しかし、わからないということだけが、苦しみを神秘にするのではありません。
「イエスがもたらした福音は、苦しみを取り除くためではありません。私が苦難の中にいても、喜びのうちにいても、生きる真の意味をつかむためです」(p.61)
イエスの前に立つとき、苦しみは神秘となるのです。
ところで、さきほど、愛は委ねることだとありました。しかし、わたしたちが神や隣人に委ねる前に、神がわたしたちに委ねていることがあると著者は言います。
「神は、私を世に送り出すとき、夢を託してくだった・・・イエスの福音によって苦しみに意味を見いだし、絶望を希望に変え、新しいいのちに生きること、その喜びを他者に伝え、ともに喜び合うことです」(p.62)。
イエスの福音によって苦しみに意味を見いだす夢、神秘を神はわたしたちに委ねてくださったのです。
はじめに、黙想が苦手だ、と書きました。心を自分以外に絶対に委ねないゆえではないでしょうか。しかし、神がわたしたちに夢と神秘を委ねてくれているのだから、わたしたちも神に心を委ねることがまったくできないわけではないのではないでしょうか。