この本には、若松さんが選んだ、さまざまな詩人のさまざまな詩が引用されています。どれも美しい詩ばかりです。その意味では、この本は若松さんの詞華集です。
それらの詩には、若松さん自身の言葉が添えられていますが、それは歴史的背景や文学技法の説明ではありません。若松さんは、この本で、詩人が見たものを、自身も見ようとしているのです。
若松さんには「イエス伝」という一冊がありますが、この本も、イエスという人物を歴史学的に正確に再構成しようとするのではなく、イエスを主人公にした福音書の記者がイエスの中に見たものを、若松さんも見ようとしたものでした。
若松さんは何を見ようとするのでしょうか。
「詩とは、世にあるさまざまな人、物、出来事、想念、そして象徴を扉にしながら、その奥にあるものにふれようとする営みである」(p.27)。
「その奥にあるもの」とは、何でしょうか。
「鴨長明は、刻一刻と変わりゆく『無常』を見ながら、その彼方にある『常』すなわち、永遠なるものを観ようとしています」(p.33)。
「永遠なるもの」とは、何でしょうか。
(八木重吉が)「描き出そうとしたのは、心と外界が深く交わるときに起こる、仏教のいう不可思議な、キリスト教のいう高い次元の『神秘』なる出来事です」(p.123)。
「神秘」は特定の宗教の専有物ではありません。
(大手)「拓次にとって試作とは、人間界を超えた大いなる世界、人間を超えた大いなるものにふれようとする営みでした。彼は、宗派の彼方において、超越者のはたらきを感じようとしたのです」(p.253)。
花鳥風月に触れるとき、わたしたちは、その美しさだけでなく、その美しさの奥にある神秘、その美しさをいまここにあらしめる泉を予感します。詩人は、その花の代わりに、その花をうつしとった言葉を、読者に差し出し、神秘と泉の予感へと誘うのです。