本書で「災害を考える」ということは、災害防止や対策を考えることではない。では、何を考えるのか。
本書では、寺田寅彦の「天災と日本人」、柳田国男の「先祖の話」、セネカの「生の短さについて」、池田晶子の「14歳からの哲学」が取り上げられている。そして、それぞれを展開するそれぞれの章には、「「自然」とのつながり」、「「死者」とのつながり」、「「時」とのつながり」、「「自己」とのつながり」という副題がつけられている、
つまり、本書では、自然、死者、時、そして、自己を考えるのだ。そして、これらの共通点は、目に見えない、しかし、たしかに存在する根本的なもの、ということではなかろうか。
「科学の目は「事実」を認識するのは得意だが、「現実」を認識するのは不得意である」(p.10)。
「現実は、つねに人間と自然のあわいにある。そのことを想い出し、「自然と向き合う」のではなく、「自然とつながる」感覚を取り戻していく。その道程を照らし出してくれるのが寺田寅彦の言葉であり」(p.12)。
自然は目に見えるように思われるかもしれない。科学の目で自然を見ることができるように思われるかもしれない。しかし、「自然とつながる」感覚、自然とのつながりは目に見えない。風景や光景、現象にとどまらない、目に見えない自然と、わたしたちは感覚においてつながらなければならないのではないか。
「常民の常識にとって、「先祖」とは生者の記憶のなかだけに存在するものではなく、目には顕かに見えずとも、つねに生者と交わり、より深く生者の心に寄り添い続ける「生きている死者」なのです」(p.39)。
日本の常民の世界においては、仏教以前から、「死者」が生きている、というのだ。それは、思い出のことではない。死者は、今、語りかけて来るのであり、死者に、今、語りかけるのだ。たとえ、視覚には見えなく、聴覚には聞こえないとしても。
「過去・現在・未来を一望しようとする哲学は、現在しか見ようとしない為政者とのあいだで、つねに緊張関係にさらされます」(p.77)。
侵略し続ける為政者は、過去の侵略の歴史も、侵略のない未来も見ていないのです。目に見えない反省も希望も持たないのです。しかし、平和を考える人は、目に見えない過去と未来を見るのです。
「記号としての文字、耳に聞こえる声は感覚でとらえることができます。しかし、私たちは意味にふれることもできず、その姿を見ることもできません。けれども、意味は確かに存在しています。それを私たちははっきりと感じている」(p.88)。
自己という文字は目に見えます。ジコという音は耳に聞こえます。しかし、自己の「意味」には手で触れることはできません。しかし、わたしたちは、自己の「意味」を感じます。
そして、災害を考えることも、じつは、目に見えない根本的なものを考えることだったのです。なぜなら、災害に際して、わたしたちは、自然、死者、時、自己を考えるからです。