752 「真理とは、分離以前、未分のこと」・・・「宗教とその真理」(柳宗悦著、若松英輔監修・解説、2022年、亜紀書房)

 「余は例えばキリスト教の存在がただちに仏教の非認であるとは思わぬ。一宗の存在がただ他宗の排斥によって保たれるのは醜い事実であろう。多くの宗教はそれぞれの色調において美しさがある。しかも彼らは矛盾する美しさではない。野に咲く多くの異なる花は野の美を傷めるであろうか」(p.8)。

 

 野百合は野ばらを否定しない。野百合も野ばらも美の表れである。キリスト教は仏教を否定しない。キリスト教も仏教も真理の表れである。宗教とは、一宗の個性を持ちながら、他宗とともに、真理を現している。宗教とはそのような各宗のことであり、どうじに、それが現わす未分の真理のことである。

 

 「宗教的真理は味わうことによってのみ知らるるのである。ただちに体験が真理の如実な理解である。分別の理知は未分の真理のまったき把握にはならぬ。絶体はすでに差別の挿入を許さぬからである」(p.11)。

 

 野の花を見て、この花は美しいと思う。ここには、美しいと思うわたしと野の花の差別がある。分離がある。真理の把握とは、野の花とわたしが重なることである。

 

 野の花を見る。「美しい」という言葉が出る前に、わたしと野の花が一つに重なっている。が、「この花は美しい」という言葉が出た時は、わたしとこの花は分離されている。宗教的真理は、「この真理はすばらしい」という言葉でわたしの対象となりわたしから差別されるものではなく、言葉以前に真理とわたしがひとつに重なること、味わうことである。味わいは一体であり、理知は分離である。

 

 「無とは有の対辞ではない。有無未分の意である。無は未発である。未だ何ものも住まない境を言うのである」(p.80)。

 

 宗教的真理においては、有と無も分離されない。有があり、その対称に、無があるのであれば、有は絶対ではなく、相対である。神が絶対であり、有であるのであれば、その有も無との相対関係の有ではなく、絶対有である。有と無が分離されない有である。

 

 「真の「時間」は過去と未来とを許さぬ時間である」(p.216)。「「永遠の今」ということが彼らの認めた絶体時であった。不死は到達し得ない遼遠な未来に在るのではない。この現在が不死である。瞬時即永遠である。宗教的時間はこれを措いてほかにはない。これはかつて理解された最も深い時間の考えと言わねばならぬ」(p.137)。

 

 過去、現在、未来と分離された時間は相対的時間である。宗教的時間、絶体時は、永遠に今である未分の今のことである。

 

 「信仰とは神に対する依頼ではない、神に即する内生である」(p.226)。

 

 キリスト教では、神を創造者、人間を被造物、と峻別する。この峻別においては、被造物が創造者を対象化して、委ねるしかないように思われる。

 

 けれども、パウロはこう言う。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。

 

 ヨハネ福音書でキリストはこう言う。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」(ヨハネ14:20)

 委ねることは、対象と一体化して、対象との分離を克服し、未分に戻ることでもある。「即する」とは未分のことである。

 

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