わたしの弱さが力になる、というのではない。弱点が利点になるというのでもない。少なくとも、直接的にはそういう意味ではない。
若松英輔さんはつねに聖書を読む人だ。新約聖書の「コリントの信徒への手紙二12章」にこうある。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
この文脈で、弱さの中の力とは、キリストから受ける恵みのことであり、キリストの力のことである。
キリストを信じれば、「揺るぎない」力が得られるのか。そんなことはない。若松さんもこう述べる。「今日いう『安定』は、大地に深く根差すようなそれではなく、小さな舟で海に漕ぎ出したときのような、揺れながらだが、どうにか日々を生きている、そういった意味での安定だ。揺れてよい。むしろ、揺れなくてはならないのかもしれない」(p.17)。
神を信じる者には、恐れはないのか。そんなことはない。「恐怖を取り除くのはむずかしい。だが、恐怖という荒波の奥にもう一つの『海』を見出すことはできるのかもしれない」(p.19)。
わたしたちは、今、コロナ渦中で、人生には恐れと揺るぎが伴うことを、あらためて噛みしめている。ちからとは、この二つを無くすものではなく、この二つにもかかわらず、そこを生き抜かせてくれるものだ。
海の表面は荒波でも、深いところには凪がある。実感は難しくても、予感は許される。荒波に揺れながらも、深海の静寂を思い浮かばせてくれるちから、それが弱さのちからではないか。
本書には、もうひとつ、若松さんならではの言葉がある。「近くにいる人たちと『さわる』『まじわる』『むれる』のではなく、離れた場所にいる人と人が、『ふれる』『つながる』『つどう』を実現する」(p.126)。
同じ空間に居合わせ握手はしたが、私はその人に「ふれた」のだろうか。ただ「さわった」だけなのではないか。談笑し名刺は交換したが、その人に「つながった」のだろうか。「まじわった」だけではないか。私たちはそこに「つどった」のだろうか。「むれた」だけではなかったか。
リアルであろうとテレであろうと、だいじなことは、人格と人格が、ふれあい、つながりあい、つどいあうことだ。コロナ流行の中で、私たちはそれを教えられている。肉体的にはたがいに近くにいなくても、私たちは、手紙や言葉や、あるいは無言によって、近くあることはできる。
若松さんは「死者」を語ってきた。死は私たちのもっとも弱い姿だ。けれども、そこに働くちからがある。そのちからは、死者とさえ、ふれあい、つながり、つどうことを許してくれる。これは、文学、哲学の話だ。