四人の家族を一度に失った人がいました。その人は、それからはそれ以前にもまして、悲しみを考えるようになりました。自分の悲しみを軸としながら、人間の悲しみを深めるようになりました。悲しみの友もできました。本書の著者たちもそうです。
柳田邦男さんはお子さんに先立たれました。しかし、脳死した息子さんが問いかけてきたのです。
「人は亡くなっても魂は亡くならない。精神性のいのちというものは、肉体のいのちとは異なる永遠性の要素を持っています」(p.43)。
しかし、これは、超自然現象を言っているのではないでしょう。「精神性のいのちは、肉体が消滅しても消えないで、人生を共有した人の心の中で生き続ける。それゆえ亡くなったあとも、残された人に、生き直す力を与えてくれたり、心豊かに生きる生き方に気づかせてくれたりするのだと思います」(同)。
若松英輔さんはおつれあいの死を経験しました。本書に収められた文章で、若松さんはディケンズの「クリスマス・キャロル」を語っています。「クリスマス・キャロル」は、まさに、柳田さんが、人は「亡くなったあとも、残された人に、生き直す力を与えてくれたり、心豊かに生きる生き方に気づかせてくれたりする」と述べたとおりの物語だったのです。
若松さんはさらに言います。「死者は苦しんでいないと思う。僕は絶対にこれは疑わないですね」(p.83)。そして、その「死者の唯一の願いというのは生者の幸せだと思うのです」(p.73)と言います。
平野啓一郎さんは「僕たちの中にはいくつかの人格が一種のパターンのようにしてできていく。僕はそれを、個人という概念に対して、分人と名づけている」(p.199)と言います。
悲しい経験をした人は悲しみしかないかというと、そうではなく、喜びも秘めています。それ以外にもいくつかの想い、いくつかの形容詞を持っています。
悲しみから喜びに変わるというよりも、悲しみと重ねて、日常の小さな喜びもあれば、悲しみを通して、死者によって養われた生きる喜びもあるのではないでしょうか。