この本は神学と深いかかわりを持っているが、文学である。神学は詩でなくてはならない、とかつて思ったことがあるが、そして、じじつ、ぼくが好んできた神学はどこか詩的なのだが、この本は、文学である。文章が水彩画のように美しい。
ところで、副題に「黒人神学」とあるが、「神学」とはどのようなものだろうか。
たとえば、今ぼくの手元にある「ティリッヒの「組織神学」研究」(藤倉恒雄著)の一節を挙げると、「神の深淵的要素――存在の根拠としての神(父)と、形式的要素――意志としての神(子)、及びこの両要素を統一する行為としての神(霊)」(p.117)とある。神学とはこのように難解な言葉ばかりなのか。
たほう、榎本空さんのこの本は、たしかにコーンという神学者が主人公群のひとりだが、この本はけっして「コーンの「黒人神学」研究」などではない。この本は、コーンの学問についての論文でもレポートでもなく、空さんがコーンとその仲間たちと歩いた道のりなのだ。
それでいて、ぼくは、この本は「神学」だと思う。神学は、「神についての学」とも言えるだろうが、「神についての言葉、語り」、つまり、「神語り」でもある。恋に関する話を「恋バナ」と言うのに倣えば、この本は、空さんの「神バナ」なのだと思う。神学は「神バナ」であることをこの本は実証している。
けれども、それには、先駆者がいる。コーン自身だ。空さんは、この本の著作に先立って、「誰にも言わないと言ったけれど (「黒人の炎」を受け継ぐために ―― 黒人神学の泰斗、その人生のすべて)」を翻訳している。これは、コーンの自伝的な一冊だが、これは、まさに、コーンの「神語り」「神バナ」なのだ。
コーンの場合は70年、空さんの場合は30年という違いはあるが、自分と人びとのストーリーをメインにしながら、いや、そうすることで、神を語る手法は共通している。経験と黙想。それが、ふたりが記すストーリーだ。
「教室の後ろ側の壁には、所狭しとプラカードが並べられている。「Black Lives Matter」や「I Can’t Breathe」……雨風や太陽にさらされて色を失い、ふしくれたこれらのプラカードは、最後に掲げられてからしばらくの時が経っていたはずだが、それらはいまだに路上の熱を帯びているようで、容易には触れられなかった」(p.77)。
良質の文学だ。沖縄の作家、大城立裕がふと思い出された。ぼくは、国会議事堂前で目撃したことを、こんなに立体的に、生き生きと描くことはできない。
「夫婦の会話はある種の啓示のように、私に突き刺さった。私はどこかで、自分が真空の中に生まれた無色透明な存在として、彼らの痛みをともなう記憶に触れることが許されると勘違いしていたのかもしれない。自分は白い壁のような存在で、そこに投げられた言葉をただ受け取ればいいと」(p.107)。
深い黙想、奥行きのある自省に基づく、真実の表現。
「もしこの世俗の世界にあって私たちが死者に寄り添う方法を歴史と呼ぶなら、信仰とはひとつの、死者とともにいるための方法であろう」(p.110)。
神学はやはり詩である。空さんは須賀敦子を読むと言う。それなら、若松英輔の死者論をも手にしているのかもしれない。
「十字架後の土曜日の暗闇にあって、イエスとは生き残ることのできなかった一人であるが、しかし、同じ土曜日に、十字架だけではなく空の墓をも証しするイエスは、生き残った人びとにとってかけがえのない存在となるのだ。「拷問を受け、リンチを受けた多くの黒人にとって、十字架につけられたキリストは、彼らの生の大いなる矛盾の内に現存する神の愛と解放のしるしとなる」。そんなコーンの言葉を、私はこう理解している」(p.111)。
コーンから空さんへ、神が語り継がれている。土曜日、十字架の金曜日と復活の日曜日の間の土曜日は、空さんの、この本の神学のキーワードだ。
「私たちは、ニグロとして、白人に劣った価値のない存在だと教えられてきたのだ。奴隷制とはそういうことだ。リンチとはそういうことだ。警察の暴力とはそういうことだ……イエスの福音とは、黒人が自らの黒人としての存在を愛することであり、自分の人間性を認めることなのだという確信だ。私はそれをマルコムから学んだ。白人が軽蔑しているこの黒い身体をいつくしむこと。彼らが憎むこの目と耳と鼻を、手と足を愛すること。この愛は闘いだぞ。わかるか?」(p.39)。
ニューヨーク・ユニオン神学校からのライブ中継。空さんがコーンの言葉を再生、そう、文字通り、再生してくれた。ユニオンで学んだ者は多い。けれども、教室の生きた声を聴いたのは、これが初めてだ。