「教皇フランシスコ キリストとともに燃えて――偉大なる改革者の人と思想」(オースティン・アイヴァリー (著), 宮崎修二 (翻訳)、明石書店、2016年)
教皇フランシスコには、ふたつの柱がある。ひとつは、イエズス会の霊性(信仰、宗教精神)であり、もうひとつは、「民衆から学ぶ神学」だ。
教皇になる以前から、彼は「イエズス会士たちの宣教にかける精神と規律、貧しい人びととの関わり、そして、とりわけ、その霊性を賞賛していた・・・イエズス会士になるにはカトリック教会のどの組織よりも長い訓練期間がある」(p.89)。
ぼくはプロテスタントの牧師だが、そのような霊性の訓練期間を一秒も経験したことがない。これは、参考になる。
「イエズス会の霊性は『霊躁』に端を発している。すべてに神を見出すこと、黙想のために世から逃れる必要がないこと、活動において観想的であること、積極的な生活を送るが、祈りに根ざしたものであるべきこと、神と他の人びとにさらに仕えられるようにするため地位、富、権力といった偶像に影響されずにいる方法を学ぶ自由と離脱の精神――これらがイエズス会の霊性である」(p.94)。
本書に述べられている彼の歩みは、彼がこのような霊性を具現していることを物語っている。
「移住と仕事――教皇はこの二つから教皇としての仕事を始めた。それは貧しい人びとのことを気にかけるということであった」(p.19)。
移民、難民は、失業や低賃金、劣悪な労働環境とつねに隣り合わせであり、貧しい以外にありようがない。
「教皇は・・・若者たちに呼びかけ・・・『キリストのアスリート』となるように促した。そのトレーニングには日々の祈り、秘跡、他の人を愛すること(『人の話に耳を傾け、理解し、赦し、受け入れ、助けること。すべての人を例外なく、誰ひとり排除することなく』)が含まれる。それはもっと公正で友愛に満ちた社会の建設をそれぞれの人と始めるということであった」(p.86)
けれども、彼は同性愛者をどう思っているのか。「彼らが自分の家族から拒絶されているということ、同性愛者であると指摘されて、糾弾される恐怖の中で生きることがどのようなものであるかをベルゴリオ(教皇の名前)は知っていた」(p.469)。
本書によると、教皇は、アルゼンチンの「市民婚法」(おそらく、同性愛者の家庭的パートナーシップを認めるような法律のことだと思われます。ただし、養子権はなく、相続権も制限されているようです=筆者注)には賛成だが、(「市民婚」とは違い)「結婚」という言葉は異性間カップルにだけ用いるべきだという考えのようだ。これについては、さまざまな議論があることだろう。
同性愛者が民衆のなかにいることはたしかだ。同性愛者やトランスジェンダーはイエズス会に入れるのだろうか。